第245話 お互いの汗の香りは
しばらくの間、二人でストレッチをしていく。
バランスボールを使ったりと次第に強度をあげていくと、しだいに桜彩の息が上がってくる。
頬も火照って顔には汗が滲んでいるのも分かり、口から漏れる吐息をやけに色っぽく感じてしまう。
「少し休憩するか」
いきなり負荷を掛けすぎても良くない。
そう考えて桜彩の様子を見ながら提案すると、桜彩の方も良かったというような表情でコクリと頷く。
「うん。私も少し疲れちゃったから。それじゃあ一旦やめるね」
そう言って乗っていたバランスボールから降りようとする桜彩。
しかしそこで疲労のせいか、バランスボールから降りる際に体勢を崩して前のめりに倒れ込んでいく。
「あっ!」
「危ない!」
慌てて怜が桜彩へと駆け寄り体を掴む。
しかし怜の方も充分な体勢をとれなかった為倒れていく桜彩の勢いに押されてしまい、踏ん張りの利かなかった体は桜彩を抱えたまま床へと倒れた。
「痛た……」
「ご、ごめんっ! だ、大丈夫!?」
我に返った桜彩が怜の上に乗ったまま慌てて状況を確認する。
「あ、ああ……。とりあえず大丈夫だ」
そもそも思い切り体を打ち付けたわけでもないし、床にはマットも敷いてある。
頭も打っていないし何も問題は無い。
そう思って怜も目を開くと、その瞳に目の前にある桜彩の顔がアップで映る。
ひとまず落ち着いた桜彩の方も、至近距離に怜の顔があることを認識する。
「……………………」
「……………………」
(も、もう何度も認識してるけど、やっぱ桜彩って美人だよな。目もパチッとしてるし、まつ毛とかも……)
(れ、怜の顔がこんな近くに……。も、もう何度かこんな距離になってるけど、やっぱりその、怜って格好良いよね……)
しばしの間、無言でお互いの顔を見続ける。
その内に二人共その状況に気が付いてあっ、と声を出して正気に戻る。
そして恥ずかしさからお互いに顔から視線を外して顔を赤くする。
「そ、そう……。助けてくれてありがとね」
「気にしないで良いって。それより桜彩の方は大丈夫か?」
「うん。怜が助けてくれたから大丈夫だよ」
「なら良かったよ」
ともかく二人とも無事で何よりだ。
そう思いながら桜彩が怜の上からどこうとすると、その額から汗が零れて怜の頬へと落ちる。
「……ん?」
「あっ!」
頬に感じる感触を一瞬疑問に思う怜。
とはいえすぐに水滴の正体が汗だと気付き再び桜彩の方へと視線を向けると、上に乗ったままの桜彩が少しばかり青い顔をしていた。
「桜彩? どうかしたのか?」
「あっ、え、えっと…………」
どうにも要領を得ない返事が返ってくる。
(あ、汗が怜の頬に落ちちゃった……。て、ていうか、私、今、汗だくだよね…………?)
今の状況を理解した桜彩の顔が更に青くなる。
一応エアコンで冷房は入れているとはいえ、そこそこ激しく運動した桜彩は全身に汗をかいている。
そして身に付けているウェアは室内運動用の薄い物。
ということは、汗のしみ込んだウェアのまま怜の上へと倒れてしまい、あまつさえその状態で密着しているということだ。
「ご、ごめんっ! す、すぐどくからっ!」
その事実に気が付いた桜彩が飛び起きようとするが、先ほどから怜に抱えられている為に上手く起き上がることが出来ない。
一方で怜の方も桜彩が起き上がろうとしていることを理解して、桜彩の背中に回している手を放す。
すると即座に桜彩が起き上がり、そのまま怜から距離を取った。
「え、えっと、桜彩……?」
「あ、う、うん!」
「ど、どうかしたのか?」
「な、なんでもないよ!」
怜の問いに桜彩が顔を真っ赤にして答える。
いきなりの不自然な行動の理由が怜には分からない。
一方で桜彩の方はもう心臓がバクバクとして落ち着かない。
(て、ていうか、私、汗臭くない……?)
一度気にしてしまうとそれが頭から離れない。
普段体育等で汗をかいた後、桜彩は匂いに対するケアもしている。
しかし今はそんなケアはまるでなしに、汗だくのまま怜と密着してしまった。
着ているウェアは薄着だし、その状態で密着してしまったということは、つまり汗でビショビショになったウェアを怜に触られたということで。
「なんでもないって、そんなことはないだろ?」
とはいえそんな桜彩の葛藤に怜は気が付けない。
「あ、え、えっと……」
さすがに顔を真っ赤にして遠ざかった桜彩が普段通りだとは思えない。
怜が問いかけるが桜彩は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
桜彩としても正直に答えるのはかなり恥ずかしい。
そんな桜彩を見て怜は原因を考えて頭を下げる。
「えっと、その……ごめん……」
「えっ……?」
いきなり頭を下げた怜に驚く桜彩。
「れ、怜……? 何で謝るの?」
「え? 何でって……その、助けようと思ったけどそのまま変に倒れちゃったし……」
「れ、怜は悪くないから!」
慌てて桜彩が大声で否定する。
これはあくまでも自信の失態によるものだ。
怜が頭を下げるべき理由など一つも無い。
むしろ助けてくれたことには感謝している。
とはいえこのままでは怜の方も納得しないと思うので、恥ずかしさを押し殺して口を開く桜彩。
「え、えっと……ね…………。そ、その……い、今、私、凄く汗をかいちゃってるから…………」
後半は消え入るような小さな声で告げられた理由。
一方でそれを聞いた怜としてはそれでも理由は分からない。
「ま、まあ汗をかいてるのは分かるけど……それが……?」
「え、えっと……」
顔を真っ赤にした顔を両手で覆ってを逸らす桜彩。
そしてそのままゆっくりと怜の方へと向き直り、指の間から怜の方を覗き見ながら口を開く。
「その……わ、私……あ、汗臭くない…………?」
「…………え?」
桜彩の口から出た予想外の言葉に一瞬怜の思考が停止する。
「だ、だからその……汗かいたまま怜の側にいるのが……今更ながら、恥ずかしくって…………」
そう言っている今も顔から火が出るほどに恥ずかしい。
一応少し距離を取っているとはいえ、それでも同じ部屋にいることに変わりはない。
そんな桜彩に怜はふっ、と笑って
「それを気にしてたのか? そんなことないって」
「ほ、ホントに……?」
両手を覆う手をどけて、しかし恥ずかしそうに桜彩が聞き返す。
それにゆっくりと頷いて
「本当だって。桜彩が汗臭いなんて思ってないよ」
「そ、そうなの……? で、でも私、今凄く汗かいて……」
「だから気にしないで良いって。ていうか、そう言われるとむしろ俺の方が気になってくるな。桜彩に嫌な思いさせてないか」
そう言いながらクンクンと軽く自分の体を嗅ぐ。
桜彩ほどではないが怜も汗はかいている。
桜彩同様に普段はケアをしているのだが、今はそんなことはしていない。
すると桜彩は慌てたように首を横に振って
「そ、そんなことないって! その、怜の匂いを嫌だなんて思うわけないよ!」
「それだったら俺だってそうだぞ。今の桜彩は普段と変わらないって。なんていうか、落ち着くっていうか……」
「え……? そ、そうなの……?」
「ああ。普段も今も、俺は桜彩の匂いを嫌だなんて思ったことは一度もないぞ」
「そ、それなら私もだよ。私も怜の匂いって安心するっていうか……」
「…………」
「…………」
お互い恥ずかしいことを言い過ぎたせいか、顔を真っ赤にしたまま会話が止まってしまう。
「え、えっと、それ、本当か?」
「う、うん。怜の方こそ本当に?」
「ああ、本当だよ」
「そ、そっか。ごめんね、変な事言って」
やっと安心した桜彩が怜の方へと近づいて身を寄せる。
これで不自然な距離の開け方は終了し、ようやく普段の距離感だ。
「ふふっ。汗をかいていても怜は良い匂いだよ。匂いって言うより良い香りっていうかさ」
「それなら桜彩だって」
「ありがと。……んーっ!」
するといきなり怜の胸元に桜彩が顔を寄せて大きく息を吸い込む。
そして顔を上げると満足そうな表情で怜を見る。
「ふふっ。やっぱりい香りっ!」
「む……。さすがに恥ずかしいな……。ならお返しだ」
そう言うと素早く桜彩のうなじへと顔を近づけて臭いを嗅ぐ。
さすがに桜彩がやったように、相手の胸に顔を近づけることは出来ないが。
「桜彩だって良い香りしてるぞ」
「ふふっ、ありがと。でもやっぱり恥ずかしいかも」
「それは俺だって」
二人とも顔を赤らめながら、それでも笑顔で相手を見る。
「ふふっ」
「あははっ」
「ほら、桜彩」
「ん。ありがとね」
用意したスポーツドリンクをコップに注いで渡すと桜彩がそれをゆっくりと飲む。
「それじゃあはい」
空になったコップに今度は桜彩が新たに注いで手渡してくれる。
一応コップは二つ用意してあったのだが、一つは使うことは無さそうだ。
それを怜も一気に飲み込むと、体中に水分が行き渡っていく気がする。
そのまま当初の予定である水分補給をして、隣同士に座ってお互いの香りを感じながら休憩を続けた。
数分後、部屋の鏡を見て自分達が密着したまま相手の香りを堪能していることに気が付いて顔を真っ赤にすることになったのだが。
【後書き】
次回投稿は月曜日を予定しています
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