第186話 相合傘③ ~アクシデントとお姫様抱っこ~
二人で仲良く話しながらの下校デート。
いつもよりも気持ち程度に歩く速さを抑えていたのだが、それでもやがてアパートが見えてくる。
「もう、着いちゃったね」
「ああ。桜彩とこうやって下校するの、もうちょっと楽しみたかったけどな」
「うん、私も。早くいつもこうやって一緒に帰れるようになれれば良いんだけど」
「まあそこはおいおいだな」
「うん」
まだ学内での二人の関係は良くて友人に見える程度。
一般的にはただのクラスメイトにしか見えないだろう。
怜も桜彩も学内でも普通に話したりしたいのだが、そこは二人の関係が周りにバレると面倒なことになりそうな為に隠し続けている。
「傘に入れてくれてありがとな」
「ふふっ、だから構わないって。さっきも言ったけどさ、怜が傘を持って行った方が良いって教えてくれなかったら私だって濡れることになったんだから」
「それでもありがとうだよ。雨に濡れちゃったし温かい物でも飲むか。昨日作ったクッキーでも食べながら」
冷蔵庫の中身を考えてそう提案すると、桜彩の顔が今まで以上にぱあっと明るくなる。
「えっ、クッキー? やったあ!」
怜の言葉に桜彩のテンションが上がっていき『クッキー、クッキー!』と嬉しそうに口ずさむ。
「ほら、怜! 早く早く!」
一刻も早くお茶会を始めたいのか怜の手を引いてエントランスへと向かおうとする桜彩。
「あっ!」
しかしそこで桜彩が体勢を崩してしまう。
足下はエントランス前の溝にはめ込まれているグレーチング。
雨に濡れて滑りやすくなったそれは、急ぐ桜彩の足を罠に嵌めて――
「危ないっ!」
慌てて空いている左手で桜彩を抱きとめる怜。
そのままグイッと自分の方へと抱き寄せる。
「ふぅ……間一髪か」
「あ、ありがと……あっ!」
「あっ……」
間一髪桜彩を抱きとめたのは良かったのだが、そのせいで桜彩の体は今日一番怜に密着することになった。
傍から見ればほとんど抱き合っているような体勢。
それに気が付いた二人の顔が真っ赤に染まる。
(れ、怜がこんなにっ近くに…………)
(あ、こ、これって、桜彩を抱きしめちゃったような…………)
しばらく無言で見つめ合った後、怜がゆっくりと口を開く。
「あ、わ、悪い……」
「う、ううん……。怜は私を助けてくれたんだから。私こそゴメンね。慌てちゃって」
「ま、まあ今度から気を付ければいいさ」
「うん。ありがとね」
そう言って桜彩がふふっと笑う。
それを確認して怜が桜彩を抱きとめた手を離そうとして
「痛っ!」
「どうした!?」
桜彩の声に慌ててもう一度抱き寄せて、再び近づいた顔に二人揃って顔を赤くしてしまう。
(ま、また怜がこんな近くに…………)
(あっ、また桜彩を…………)
恥ずかしさに耐えるように桜彩が一度視線を外して
「え、えっと……その……今ので少し足を捻っちゃったみたい……」
「えっ、大丈夫なのか?」
膝を曲げて右の足首に触れる桜彩。
この状態では分からないが、もし捻ったということであればあまり無理はしない方が良い。
「えっと、多分大丈夫だと思うよ」
そういって再び右足を地面に着けて歩き出そうとするが、その肩を怜が掴む。
「ちょっと待った。無理しない方が良いって」
「大丈夫だよ。そこまで大きな痛みってわけでもないしさ」
「駄目だ!」
大丈夫だと言う桜彩に対し、怜が真剣な顔をして大きな声を上げる。
「えっ?」
「あっ……その、悪い……」
いきなり大声を上げてしまったせいか桜彩が驚いてしまう。
しかし怜としてもそこは譲れない。
「だけどな、もうすぐ部屋まで着くんだから、無理しない方が良い。下手したら悪化するぞ」
「あ、うん、ごめんね。でもさ、怜の言う通り部屋まであと少しだから大丈夫だって。念の為にゆっくり歩くし……うっ!」
そう言う桜彩だが再び痛みの為か口から苦痛の声が漏れる。
平気だと言ってはいるものの、やはり体重がかかると痛いらしい。
これでは普通に歩くのも難しいだろう。
「桜彩。ちょっと待ってて」
「え?」
そう言って怜は持っていた傘を手早く畳む。
「それとこれを持っててくれ」
そしてお揃いのキーホルダーの付いた鍵を取り出して桜彩へと渡し、ついでに半ば強引に桜彩の持っていた通学用のバッグを奪うように手に持つ。
「怜? どうしたの?」
「その足じゃ無理して歩かない方が良いだろ。てなわけで、ちょっと失礼するぞ」
「え? ……あっ!」
返事を聞く前に桜彩の体を抱え上げると桜彩の頬が一瞬で赤く染まる。
「ひゃっ! あ、あの、怜!?」
慌てる桜彩をよそに怜は桜彩を抱えたままエントランスへと上がっていく。
「あああ……あの、あの……」
「悪いけど少し我慢してくれ。おんぶよりはこっちの方が良いだろ」
運びやすさという点ではおんぶも大して変わらないのだが、そうすると桜彩の胸が怜の背中に当たることになる。
それはさすがに双方とも気まずいと判断してのこの運び方、巷でいうところのお姫様抱っこというやつだ。
まあこの体勢ではその比較的大きな膨らみがダイレクトに視界に入るのでそれはそれで目の毒になってしまうのだが。
「う、うん……。べ、別に私としては嫌ってわけじゃないから我慢とかそういうわけでもないんだけど……」
「そっか。それなら良かった」
「で、でもでも、その、私…………」
「桜彩?」
何かを言いかけて口を閉ざす桜彩に問いかける怜。
すると桜彩は恥ずかしそうにしながら口を小さく開いて言い掛けたことを小さな声で口にする。
「その…………重く、ない…………?」
「え?」
「だ、だから、その、私、体重が重くないかなって……!?」
恥ずかしそうに顔を真っ赤にして早口で二回目を告げる桜彩。
つまりは恥ずかしがっていた理由はそういうことかと怜も納得する。
もちろん怜も桜彩も、お姫様抱っこそれ自体の恥ずかしさもあるのだが。
「ははっ、そういうことか」
「そ、そういうことって……! わ、笑うなんて酷いよぅ……」
クスッと笑った怜に桜彩が口をすぼませる。
「全然重くなんてないからな。むしろ桜彩に言われるまでそんなこと気にならなかったし。だから桜彩も気にすることないって」
「う、うん。ありがと……」
申し訳なさそうに、そして恥ずかしそうにしながらも少しばかり嬉しそうなお礼。
そんな桜彩の表情も可愛いな、なんてことを思ってしまう。
「で、でもでも、バッグだって持ってるし……」
ちら、と桜彩が視線を向けた先は怜の左腕。
桜彩からは丁度死角になって見えにくいのだが、そこには二人分のバッグが掛けられている。
「だから大丈夫だって」
安心させるようににっこりと笑いかけると桜彩もやっと納得したのか笑顔が戻る。
「怜って結構力強いよね。普段はそんな風には見えないけど」
「まあ普段から結構鍛えてるからな」
「ふふっ。確かにそうだね。細マッチョっていうのかな?」
朝のランニングの際にもウェイトを着用した状態で行っているし、そもそも怜は陸翔や蕾華とスポーツをする機会も多い。
運動部ではなくボランティア部とはいえちゃんと筋肉はついている。
「でもこうして役に立てると鍛えていてよかったって思えるよ」
「うん。ありがとね、怜」
「どういたしまして。さて、いつまでもここで話しているわけにもいかないからそろそろアパートに入るか」
「あ、うん。そうだね」
そして怜は桜彩をお姫様抱っこしたままエントランスの先の自動ドアへと向かう。
オートロックで施錠されているそれを怜に渡された鍵で桜彩が開けるが、その動作で桜彩がバランスを崩してしまう。
「あっ」
「っと、悪い」
慌てて桜彩を抱え直す怜。
「悪い、大丈夫か?」
「うん。ありがとね」
「……そうだ。俺の服を掴んでてくれ。そうしたらもう少し安定すると思うから」
「えっ? でも、それじゃあ制服がシワになっちゃうんじゃ……」
「桜彩を落とすよりもよっぽどいいって。ほら、早く」
「う、うん……」
そう言われて桜彩がおずおずと怜の制服へと手を伸ばす。
だがさすがに怜が良いと言ってくれたとはいえ、制服にシワを付けてしまうのはためらわれる。
怜の制服に手を近づけては遠ざけ、近づけては遠ざけを繰り返す桜彩。
「桜彩?」
「え、えっとね……。やっぱり制服にシワが付くのはいけないと思うんだ」
「でも、それじゃあ桜彩が……」
「だからさ、その……首に手を回しても、良い……?」
桜彩の言葉を頭の中で反芻する。
確かにそうすれば怜の制服にシワもつかないし、桜彩が落ちる心配も無くなるだろう。
しかしそれは怜と桜彩の距離が更に近づくということで。
「あ、あの……い、嫌なら……」
「待った。嫌なんてことはないから……」
「う、うん……」
そのまま少し二人で黙り込んでしまう。
そして怜が意を決して桜彩の上半身をより高く持って掴まりやすくする。
「そ、それじゃあ桜彩。首に手を回して」
「う、うん。し、失礼します……」
桜彩の手が首へと回される。
それにより必然的に桜彩の顔は怜の顔の至近距離にまで近づくことになる。
「え、えへへ……な、なんか、照れちゃうね……」
「そ、そうだな……」
「で、でもさ、こうして怜に運んでもらえるのって、ちょっと嬉しいかも」
「ありがと。でもだからと言ってもう怪我なんてしないでくれよ」
「うん。気を付けるよ」
「ああ」
「でもさ、私としてはもう少し、その、こうしていたいって思ったりもするんだけどね」
「まあ、俺もそう思わなくもないけど、でも駄目だな。早く手当てしないと」
「うん」
アクシデントに次ぐアクシデント。
それにより降り注いだ小さな幸せを感じながら、怜と桜彩はお姫様抱っこのまま自室へと戻っていった。
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