第165話 少しばかり贅沢な夕食④ ~ご褒美のアップルパイ~

 案ずるより産むが易し、とでも表現すれば良いのだろうか。

 列はどんどん進んでいき、ついに怜と桜彩の番になった。

 トレーに置かれているアップルパイは残り二つ。

 目の前のその光景に列の先頭に立った桜彩は胸を撫で下ろした。


「良かったぁ。何とか残ってたね」


「ああ。ちょうどだったな」


 目当てのアップルパイが残っていたことを喜んで桜彩が怜に笑顔を向けるとそんな桜彩に怜も笑顔を返す。

 一方で列の後ろの方に並んでいた客達は、残念そうに席へと戻ったり他のスイーツへと足を向けていた。


「よしっ。それじゃあ取るね」


 そう言って桜彩がトレーの横に置かれていた皿を一枚取ってアップルパイを載せる。


「それじゃあ俺も」


 取り終えた桜彩からトングを受け取り、怜も皿へとアップルパイを載せる。

 これでタイムサービスのアップルパイは全て終了ということだ。


「ふぅ、何とか間に合ってくれたな」


「だね。それじゃあ食べよっか」


「アイスのトッピングも忘れずにな」


「うんっ!」


 焼き立てホカホカのアップルパイにバニラアイス辺りを添えたらさぞかし美味しい事だろう。

 そんな期待を胸に二人はアイスコーナーへと足を向け一歩目を踏み出した。

 しかしそんな二人の耳に後方からの叫び声が届く。


「やだあーっ! アップルパイ食べるーっ!!」


 その声に後ろを振り返ると、小さな女の子が母親とみられる相手に泣きじゃくっていた。

 年のころはおそらく小学校低学年、もしくはそれ以下。

 どうやら食べようとしていたアップルパイが目の前でなくなってしまった為に駄々をこねているようだ。


「琴音、残念だけどアップルパイはもう無くなっちゃったのよ」


「やだああああああ! 食べる食べる食べるーっ!!」


 母親の方は娘を宥めようとしているようだが、悲しいかな、この年頃の子供というのはそう簡単に納得してはくれない。


「ほら、他にも色々とあるからそっちを食べよ。琴音、ティラミス好きだったでしょ?」


「いやだああああああ! アップルパイじゃなきゃいやあああっ!!」


 他のスイーツへと興味を向けようとする母親だが少女の方はまるでいうことを聞いてくれない。

 その声量は加減知らずで店内中に鳴き声が響き渡る。

 一部には非難するような目で親子を見ている客もいる。


(…………ま、仕方ないか)


 このような状況下で取れる選択肢はそう多くない。

 そう考えて怜はアイスコーナーへと向かおうとしていた体の向きを変えてその親子の方を向く。


「あの、よろしければどうぞ」


 そう言って皿に載ったアップルパイを差し出した。


「え……? ですが……」


「私は構いませんので」


 戸惑う母親にそう言って再度差し出す怜。

 一方で少女の方は怜の差し出したアップルパイを見て嬉しそうに顔を綻ばせる。


「わあーっ、アップルパイだあっ!」


 先ほどまでの泣き顔から一転して嬉しそうに喜ぶ少女。

 一方で母親の方は申し訳なさそうに頭を下げる。


「す、すみません、本当にありがとうございます。ほら、琴音もお兄さんにお礼を言って!」


「おにいちゃん、ありがとーっ!」


 無邪気な笑顔を浮かべる少女へとアップルパイの載った皿を渡すと嬉しそうにお礼を言ってくれる。

 他人の家庭のこととはいえあまり甘やかすのも良くないかもと思わないでもなかったのだが、さすがにこの状況ではそれが最善だろう。

 それに怜としては何が何でもアップルパイを食べたいわけでもない――わけでもないのだが、過去に一つしかないスイーツを姉に譲ってもらったりと年上には色々と優しくしてもらった経験もある。

 だからこそここは自分が譲るべきだ。

 少女が泣き止んでくれたことにより、非難するような目を向けていた他のお客もまた食事に戻っている。


「本当にありがとうございました」


「いえ、気にしないで下さい」


 再度頭を下げる母親を片手を上げて制する。

 そして親子が去って行ったところで桜彩の方へと向き直る。


「ま、しょうがないな」


 苦笑しながらそう言って怜は新しい皿に他のスイーツを取っていった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 桜彩と共に席へと戻る怜。

 目の前にはコーヒーとスイーツが山盛りになった皿。

 桜彩の目の前には紅茶と当然アップルパイのアイス添えが載っている皿が置かれている。

 とりあえずパンプキンプリンへとスプーンを伸ばそうとした怜だが、その直前で桜彩の声が耳へと届く。


「あ、怜。ちょっと待って」


「え?」


 その声に対面に座る桜彩の方を見ると、アップルパイをナイフで切り分けてそこにバニラアイスを載せていた。


「桜彩?」


「はい、あーん」


 当たり前のようにアイスの載ったアップルパイを怜へと差し出す桜彩。

 上に軽く振られたシナモンの香りが怜の鼻をつく。


「え?」


「ほら、このアップルパイってそこそこそこ大きいでしょ? だから怜と二人で食べても充分なんだ」


 そう言いながら笑顔でずいっとアップルパイを近づけてくる。


「それにね、さっきの怜に私からのご褒美。はい、あーん」


「ん……あーん」


 少しばかり身を乗り出しながら桜彩の差し出したアップルパイへと口を伸ばす。

 口の中に入ったそれは、リンゴ餡とカスタードの温かさに少しばかり溶けたアイスの冷たさが絶妙で口の中でハーモニーを奏でているようだ。


「……美味しっ!」


 タイムサービスで特別に出されただけあって、この店のスイーツの中でも特に美味しく感じた。

 おもわず怜の口から感想が漏れる。


「それじゃあ次は桜彩の番だな」


「えっ、食べさせてくれるの?」


「当然だろ」


 そう笑いながらアップルパイを切り分けようとナイフとフォークを伸ばす怜。

 しかしこの時点で入店時から周囲の様子が変わっていることに二人は気が付いていなかった。

 二人が入店した時には周囲の席に他の客はいなかったのだが、入店してからそれなりに時間が経過したことで店内はだいぶ混雑している。

 当然二人の周囲の席にも後から来た客が案内されて座っている。

 それに加えて先ほどの騒動で怜(と桜彩)は一度店内の客の大半の視線を集めている。

 付け加えるなら二人共容姿の面においても充分すぎるほどに優れている。

 以上の様々な要因により、二人の行動は周囲の他の客に完全に見られていた。


「ねえねえ今の見た!?」


「見た見た! 彼氏の方彼女にあーんってされてすっごく嬉しそうだよね!」


「彼女さんの方も彼氏にあーんってやって凄く幸せそう!」


「あーいうのって良いよねー。あたしもあんなにカッコイイ彼氏欲しいなあ」


「いやー、でも彼女さんの方もレベル高いじゃん? あたし達じゃああのレベルの彼氏ゲットするのは難しくない?」


「だよねー。あ、今度は彼氏の方があーんってやるみたい」


 という会話が近くのテーブルにから聞こえてきた。

 本人達はそれほど大きな声で会話しているわけではないのだが、この近距離では怜と桜彩には丸聞こえだ。

 恥ずかしさでおもわず怜の手が止まる。

 周囲を流し見してみれば、何箇所かのテーブルから自分達へと視線が向けられている。

 目の前の桜彩へと目を向けるとやはり桜彩も恥ずかしそうに固まってしまう。

 そして徐々に顔が赤く染まっていき、目も泳いでいく。


「え、えっと……」


「お、おう……」


 どういう反応をしていいか分からない。

 よくよく思い起こしてみれば、今日は桜彩との関係を楽しんでいる最中に自分達の世界にのめり込んでしまい、周りが全く見えていないことが何度もあった。

 それだけ桜彩と二人の関係が楽しいということでもあるのだが、しかし完全にTPOを無視していると言っても過言ではないかもしれない。


「えっと、怜……」


「あ、ああ……」


 桜彩の言葉で一度正気に戻る怜。

 視線を少し落とせば、アップルパイへと伸ばした両手がそのまま固まっている。


「ま、まあ……ここで止めるってのも……」


「う、うん。そ、そうだよね……」


 つまりは桜彩も周囲に見られているからといってあーんが嫌だというわけではないということだ。

 それを理解して、怜は再びアップルパイへと伸ばした手を動かして、切り分けたアップルパイにアイスを載せて桜彩へと差し出す。


「あ、あーん……」


「あーん……」


 そして衆人環視の中、桜彩へとあーんを敢行した。

 それに静かに沸き立つ周囲。

 自分達のあーんに対する声が聞こえてきて怜も桜彩もこれ以上ないほど顔を赤くしてしまう。

 そんな桜彩の口からゆっくりとフォークを抜き取る怜。

 ついフォークの先端に視線が吸い寄せられてしまう。


「もぐ……お、美味しいよ……」


「よ、良かったな……」


「う、うん……で、でも、恥ずかしさでちょっと味がぼやけてるかも……」


「そ、そうか……」


 そして二人は周囲の視線に耐えながら、皿の上のスイーツを食べていった。

 先ほど食べていた時に比べて少しばかり味が分からなくなってしまったが。

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