第144話 言葉にすることの大切さ
食後の膝枕を存分に堪能した二人はそのまま公園を散歩する。
お花見を楽しむ家族連れや犬の散歩をしている老人。
芝生でボール遊びをしている子供達に、彼らに手を振っている家族。
目に映るのは何気ない休日の光景だが、それでもお互いが隣にいるだけで楽しい。
アスレチックの横の道へと差し掛かったところで不意に桜彩が足を止める。
視線の先では子供達や父親と思われる男性が綱渡りや板の坂を勢いよく駆け上がっている。
春の穏やかな陽気もありここからでも汗をかいているのが分かるが、そんなことを全く気にせずに全力で走り回っている子供達。
「ふふっ。アスレチックかあ。私、もう何年もやってないよ」
「それは俺もだな。近場にああいう設備ってないし」
近所にもお弁当を食べるのにちょうどよくそこそこ広い公園はあるのだが、そういった所はここまで広いわけでもないし、遊ぶための設備もない。
設備は東屋やベンチ、それに小川や池があるくらいだ。
「怜もやってみたら?」
「中々の提案だけど、その恰好じゃ桜彩は参加出来ないだろ?」
今日の桜彩は長めのスカートということもあり、明らかにアスレチックには不向きだ。
桜彩も自分の格好を見下ろして苦笑する。
「んー、そうだね。でも怜がやりたいんなら私はここで見てるよ?」
言いながら少し寂しそうな顔をする。
その桜彩の言葉に怜はノータイムで首を振って答える。
「いや、やめとくよ。ああいうのは皆と一緒にやるから楽しいんであって、一人でやってもあまり楽しくないからな」
「ん、ごめんね。私がもっと動き易い服なら良かったんだけど」
「いや、桜彩が謝ることじゃない。それにさ、出かける時にも言ったけど今日の服装、桜彩にとっても良く似合ってる、少なくとも俺はそう思ってる」
「怜……」
「だからさ、俺は今日桜彩がその恰好を選んでくれて、本当に嬉しいんだ」
「ふふっ、ありがと。怜にそう言ってもらえるならこの服を選んで本当に良かったよ」
怜の言葉で桜彩の顔に笑顔が戻る。
その顔を見て怜も桜彩に微笑を向ける。
デートというのはお互いに楽しんでこそだ。
一人だけが楽しむのであればデートなどする必要はない。
「それじゃあ行こっか」
そう言って桜彩が再び歩き出そうとするが、少し遅れて
「桜彩。さっきも言ったけどさ、今日の桜彩は本当に綺麗だし、可愛いし、魅力的だし、素敵だと思う。もちろん普段もそうだけどな」
そう言って顔を赤くした怜が桜彩に続いて歩き出す。
(……さ、さすがに恥ずかしいな。で、でも、ちゃんと言っておかないとって思ったし…………)
しかし怜が横に並ぶと桜彩はまたその場で立ち止まって顔を覆ってしまった。
(……だ、だから、いきなりそんなこと言うのは反則だよ…………)
朝にも同じことを言われたのだが、何度言われても嬉しさは治まらない。
むしろ言われる毎に胸が熱くなっていく。
「桜彩……?」
まだ心臓のドキドキは治まっていない怜だが、先に歩き出した桜彩が止まってしまった為に怜も再び足を止める。
そして顔を両手で覆ってしまった桜彩の正面に回って両手の指の隙間から桜彩の顔を覗き込もうとする怜。
しかし桜彩は体の向きをぐるんと変えて怜から顔が見えないようにする。
それに対して怜も再び移動するが、桜彩も同じように怜から逃げる。
当然怜も桜彩を追いかけるように移動するが、桜彩もすぐに向きを変える。
こうして太陽の周りを回る惑星のように、体の向きを変える桜彩を中心に怜がその周りを回るという奇妙な光景が発生する。
しかし当然その場で向きを変えるだけの桜彩よりも周りを回る怜の方が移動距離が長い為になかなか桜彩を正面で捉らえられない。
そこで怜は一計を案じて、いきなり桜彩を追う方向を逆方向へと変える。
「わっ!」
当然ながらそのフェイントについていけなかった桜彩はついに怜の正面に立ってしまった。
慌てて身をよじって顔を隠そうとする桜彩だが、それよりも早く怜が桜彩の両肩を掴む。
「あ、あの、怜……?」
「べ、別に顔を隠すことは、ない、だろ……?」
照れているのは桜彩だけではなく怜の方もだ。
「ちょ、ちょっと待って……。今、私絶対に変な顔をしてるから……」
「だ、大丈夫だろ……。さ、桜彩はどんな顔してたって、その、可愛い、と、思うし……」
「う、うう……」
その怜の言葉は桜彩にとって逆効果で、更にあわあわと慌ててしまう。
(か、可愛いって……。うぅ、そ、そんなこと言われたら、怜にどんな顔を向けて良いかわからないよぅ…………)
指と指の隙間をキュッと閉じて、怜から絶対に顔を見られないように完全防御態勢に入る。
そんな桜彩に怜はさらに言葉を紡いでいく。
「そ、それにさ、紙芝居の打ち上げの時に言っただろ? 『俺は桜彩が泣きすぎて目が赤くなろうが顔が腫れようがずっと桜彩の味方だから』って」
「そ、そうだけど……」
もちろん桜彩も覚えている。
つい嬉しすぎて泣いてしまった時、怜がそう言葉を掛けてくれた。
「だ、だからさ、その、桜彩の顔を見せて欲しいんだ。その、い、いつも可愛い、桜彩の顔を……」
(だ、だからそんなこと言われたら余計に見せられなくなっちゃうんだって……!)
「そ、それにあの時に言ったことは全部嘘じゃないから。『桜彩が笑顔になれないんなら、笑顔になってくれるまで俺が代わりに笑うから』って言ったのも、嘘じゃない。だから桜彩、顔を見せてくれないか?」
「う、うぅ…………」
怜の言葉に悶える桜彩。
両手で隠しきれていない顔は怜から見ても真っ赤に赤くなっているのが良く分かる。
そしてそろそろと両手を下ろしてその顔を怜に向け――次の瞬間またすぐに顔を覆ってしまう。
「や、やっぱりダメ……は、恥ずかしい…………」
「だ、大丈夫だって……。そ、それにその、お、俺だって、その、恥ずかしい顔してるから……」
先ほどから歯の浮くようなセリフを連続して言っている自覚がある為、今の自分がどんな顔をしているのかは分からない。
しかしいつもとは全く違う表情をしているのは間違いがないだろう。
「う、嘘だよ! い、今一瞬怜の顔が見えたけど、す、凄く恰好良かったし……」
「そ、それなら桜彩も変な顔なんてしてなかった! 凄く可愛かったって……」
「う……」
恥ずかしさの為怜から距離を取ろうとする桜彩だが、その両肩を怜につかまれている為に逃げることは出来ない。
出来る事といえば両手で顔を覆って下を向いて出来るだけ怜から見えないようにすることだけだ。
そんな状況のまま互いに根競べのように固まっていると、やがて桜彩が根負けする。
「そ、その、ほ、本当に変な顔してなかった……?」
「ほ、本当だって! そ、それに俺が桜彩に嘘を言うなんてこと、これまでに一度もなかっただろ? 俺のこと、信じられないか?」
「う……その言い方はずるいよ……」
もちろん桜彩が怜のことを信じられないなんてことはない。
家族を除けば今まで出会った誰よりも、いや、もう自分の家族と同様に怜のことは信じられる。
しかしそれでも、いやそれだからこそ今の怜が自分に向けてくれる言葉は――
「う、嘘じゃないからな! 本当に! 何度も言うけどいつも通り可愛……むぐっ!」
「も、もういいから! そ、それ以上褒められたら私、本当に恥ずかしすぎてダメになっちゃうから!」
また『可愛い』と褒めようとしたところで桜彩が顔を隠していた手をどけて勢いよく怜の口を塞ぐ。
とすると当然ながら桜彩の顔を覆っている物は全てなくなってしまったわけで、怜の目にもばっちりと映る。
再び怜と桜彩の目が合って、しかし桜彩は怜の口を塞ぐ手を当てたまま顔を少しだけ横に向ける。
そんな仕草もまた可愛らしい。
「あ、あのね……怜が私のことを褒めてくれるのは本当に嬉しいんだ。で、でもね、もうこれ以上は褒めちゃダメ! わ、分かった!?」
「むぐ……」
「れ、怜が分かったって言うまでこの手は絶対に離さないからね! 良い!?」
もうコクコクと頷くことしか出来ない怜。
それを見てまだ恥ずかしそうな顔をしてやっと桜彩が手を離す。
「もう……で、でもありがとうね。褒めてくれてとっても嬉しかったよ」
恥ずかしながら、しかし嬉しそうに怜を見上げる桜彩。
「でも本当にこれ以上はダメだからね」
「あ、ああ。でもさ、そうなるともう桜彩のことを褒めちゃいけないのか?」
「え……えっと……」
怜の言葉に桜彩が考え込んでしまう。
褒められると恥ずかしくてどうしようもなくなってしまうのだが、だからといって怜が褒めてくれるのが嬉しいことに変わりはないし、褒められないというのであればそれはそれで寂しい。
「そ、その……す、少しだけなら……褒めて欲しいかも……」
自分の心に妥協するようにそうぽそっと小さく呟く桜彩。
「わ、分かった、善処する」
「う、うん……」
「で、でもな……なるべく俺はちゃんと声に出して言いたいって思ってる。やっぱり言葉に出さなきゃ伝わらないことだってあるし、桜彩の素敵なところはちゃんと桜彩に伝えたいからさ」
「だ、だからそれが困っちゃうんだってば……!」
言った傍から照れるようなことを言ってくれる怜。
その言葉を聞いた桜彩は嬉しいやら恥ずかしいやら色々な感情が混じり合い、やはり赤くなった顔を怜から隠してしまった。
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