第123話 捻挫とお礼

「だ、大丈夫ですか?」


 すんでのところで怜は反転してすれ違った男性――空の腕を掴む。

 手すりを掴んで何とか体を固定して、転落していくのを阻止することに成功した。

 一方で空の方も体勢を崩したまま、もう一方の手で手すりを掴んで体を支える。

 空が体を安定させたのを確認して、怜は掴んでいた手を離した。

 助けられた空の方もひとまず危機は去ったのが分かり、次いで驚いた顔で怜を見る。

 少し落ち着くと、この相手に危ない所を救われたことを理解する。


「あ、ああ。助かったよ、ありがとう」


 怜の方へと体ごと向き直って頭を下げる空。

 怜としては逆恨みされるることもなく、お礼の言葉を言ってくれたことに少し安堵する。

 腕を思い切り掴んでしまった為に、それで怪我をしたと逆に怒るパターンではなく本当に良かった。


「本当に大丈夫ですか?」


「あ、ああ。大丈夫だ。すまないね、助かったよ……痛っ!」


 再度怜に頭を下げた空だが、そこで足に痛みが走る。

 無理な体勢で踏ん張ったせいで足を痛めたらしい。


「えっと、本当に大丈夫ですか?」


 慌てて再度問いかける怜。


「う、うむ……。少し足を捻ったようだが、大したことは……」


「足を捻ったのであれば、階段は危険でしょう。とりあえず一度昇ってしまいましょう」


 どうやら無理をしそうに見えたので、相手の言葉を遮ってそう提案すると、空の方も怜の言葉に頷く。


「そ、そうだな」


 頷きながら自らの左足に視線を向ける空。

 どうやら捻ったのは左足のようだ。

 大したことはないと言っているようだが、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。

 であれば、このままはいさようなら、というわけにはいかない。


「肩を貸しますよ」


「い、いや、そこまでしてもらうわけには」


 怜の提案に空が首を振る。

 見ず知らずの相手にそこまで迷惑を掛けるわけにはいかないということだろう。

 その気持ちは怜にも良く分かる、というか、同じ立場であれば怜もそうするだろう。

 しかしだからといってそれを鵜呑みにするのも気が引ける。


「気にしないでください。もしあなたが無理をして再び階段から転落、なんてことになったら助け損ですからね」


 少しばかり恩着せがましい言葉を使う。

 それにより、助けられた空の方も怜の提案を断りにくくなる。


「……分かった。好意に甘えるよ。すまないが肩を貸してくれないか? 左足を捻ったようだ」


「分かりました。それでは掴まって下さい」


 空が怜の肩に掴まると、二人でゆっくりと階段を昇る。

 上階からさほど降りた所ではなかった為に、すぐに階段を昇り切った。

 そして少しの所にベンチを発見する。

 ショッピングモール内で少し休憩する為のそれは通路から外れた所にありあまり目立たず、この人込みに関わらず今は使っている人もいない。

 それにわざわざ階段を使おうという人も少ない為に、今だけはこの区画が隔離されたような感覚を覚える。


「重ね重ねありがとう。もう……」


「そちらにベンチがありますね。そこまで移動しましょうか」


 もういい、という言葉に重ねるように、階段の側にあるベンチを視線で示す怜。

 空も観念したのか怜の言葉に頷いて二人でベンチまで移動する。

 ベンチの前まで来たところで足に負担を掛けないように怜も中腰になって座りやすいように態勢を整える。

 なんとかベンチに座ることの出来た空は、そこでようやく一息ついた。


「本当に助かったよ、ありがとう」


 ベンチに座ったことで少し楽になったのか空の表情が緩む。

 顔に浮かんだ汗をハンカチで拭きとりながら、そこで再度怜の方へと顔を向ける。


「何かお礼が出来れば良いのだけれど」


「気にしないで下さい。それより足の方は大丈夫ですか?」


 左足へと視線を向けると、空は少し顔をしかめた。


「うん。大きく捻ったわけではなさそうだ。こうしている分には問題ない」


「歩けそうですか?」


「どうだろう、多分大丈夫だと思うが」


 そう言ってが一歩踏み出す空。

 そのまま数歩歩くが、やはり少し左足を引きずるように違和感のある歩き方となっている。

 そしてやはり痛いのか顔に脂汗が浮かぶ。


「うん。歩いて移動することは出来そうだ」


「少し待って下さい」


 確かに歩けてはいるが、このままにしておくわけにはいかない。

 空の様子を見て、怜はスポーツバッグを開けて中から目当ての物を探す。

 上に入れていたスポーツウェアやフットサルシューズを押しのけて、その下の救急箱を取り出す。


「左足ですね。とりあえず湿布を貼っておきましょう。靴と靴下は脱げますか?」


「いや、さすがにそこまで迷惑を掛けるわけには……」


「迷惑ではありませんよ。困った時はお互い様です。それにここで応急処置もしないで別れたらそれこそ私の気分が優れません。なのでこれは私のエゴです」


 怜の言葉を聞いた空が目を丸くする。

 まさか目の前の少年からこのような言葉を聞くとは思ってもいなかった。

 そしてしょうがないな、というようにふっと笑う。


「そうか。それならお言葉に甘えよう」


「ええ、そうして下さい」


 怜の方も空につられて笑顔を浮かべる。


「それで、繰り返しになりますが靴と靴下は脱げますか?」


「少し待ってもらえるかな」


 そう言って靴に手を当てて脱ごうとするが、そこでやはり顔をしかめる。


「痛むようですね」


「ああ。だがこのくらいなら問題ない」


「動かないで下さい。私がやりますよ」


 そう言って怜は相手の返事を聞かずに靴を脱がせる。

 そしてその後は靴下を脱がせて男性に渡す。

 見たところ腫れてはいるが、そこまで大きく腫れているわけではない。

 本当に少し捻った程度なのだろう。

 そんな怜の行動を見て、空がふと


「……手当てしてもらう私が言うのもなんだけど、君は良いのか? 普通に触れてくれているが」


「……? 良いのか、とは?」


 言っている意味が良く分からない。

 手当をするのだから触れるのは当たり前だろう。


「ああいや、見ず知らずの中年男性の足や靴下を素手で触るのに拒否反応を起こしたりとかは……」


 申し訳なさそうに呟く空に、怜は首を横に振る。


「それでしたら最初から手当てします、なんて言いません。そのまま楽にしていてください」


 確かにそういうのを嫌がる人もいるだろう。

 怜としても普段の状況であえて触りたいなどとは思わない。

 しかしこのような状況において、そんなことは気にすることではない。

 言いながら湿布を取り出して患部に当てる。

 後はテーピングで足首を固定して応急手当は終わりだ。


「ひとまずこれで応急処置は終わりですね。痛むようでしたら病院へ行ってください」


「……本当にありがとう。助かったよ」


「いえ、私が腕を掴んだせいでもありますので」


「いや、そんなことはない! 君が助けてくれなければもっと大怪我をしていただろう!」


 実際に怜が助けなかった場合、空はそのまま遥か下の踊り場まで一直線に落ちていたかもしれない。

 それを理解している空が怜の言葉を大声で否定する。


「は、はい……」


 いきなりの大声に、今度は怜が一瞬固まってしまう。

 そこで空の方も大声を出してしまったことに気が付いて顔を落とす。

 幸いなことに、周囲に人がいない為に迷惑を掛けたわけではなさそうだが。


「と、とにかく本当にありがとう。それで、薬代と手当代なのだが……」


 そう言って空が財布を取り出す。


「い、いえ、それは結構で……」


 断ろうとした怜だが、それを見たとたんに固まってしまう。

 何しろ空は自身の財布から万札を取り出していたのだ。

 さすがに捻挫の手当て程度でその金額は高すぎる。


「そ、そうか……。すまなかった……」


「い、いえ……」


 さすがに分かってくれたのか、と怜も安堵したのだが、その次の空の行動は怜の想像の斜め上を行くことになる。


「そ、それではこれで……」


 更に数枚の万札を追加で差し出してきた。

 あまりのことにしばし呆然としてしまう怜。


「……っていやいやいや、そ、そういう問題じゃありません! お、多すぎますから!」


 正気に戻った後で首を勢いよく横に振って否定する。

 この程度でそんな大金をもらうわけにはいかない。


「そ、そうか……」


 怜の言葉に落ち込む空。

 手に持っていた万札をゆっくりと財布へと戻す。

 そんな姿になんだか哀愁が漂っているような気がしてくる。


「す、すまないね……。私はどうもこういうところが不器用で……」


「い、いえ、迷惑というわけではないですから……」


「そ、そうか……」


 そして会話が終わってしまう。

 少し離れた箇所から聞こえてくる店内放送や買い物客の会話や足音がなんだが遠い世界のように思えてくる。

 それほどまでに二人の間にはいたたまれない空気が流れていた。


「え、ええっと、その……どうしたらいいだろうか……」


 困った感じでそう怜に問いかけてくる。

 怜も少し考えて


「そうですね。それではコーヒーを一杯いただけますか?」


 そう口にした。

 別にお礼など本当に要らないのだが、そうでも言わないとこの相手は落ち込んだままだろう。

 怜の言葉を聞いた空は、それで少し気が晴れたのか、顔を上げて少し笑う。


「そ、そうか。それじゃあ近くの喫茶店まで付き合ってもらえるか?」


「ええ。ではそういうことで」


 その程度お礼であれば常識の範囲内だろうと思い提案する怜。

 空としても当初は喫茶店で時間を潰すつもりだった為に怜の提案に賛成する。

 そして二人はまだ微妙な雰囲気を醸し出しながらショッピングモール内の喫茶店へと向かって行った。

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