第95話 トラウマを越えて

(なんで……なんで描けないの……? 私はいつも怜に助けてもらってばかりなのに、何で怜が困ってる時に力になれないの……?)


「桜彩?」


 言葉に詰まって下を向いてしまった桜彩に怜が言葉を掛ける。

 すると桜彩の目に涙が浮かぶ。


「ごめん、ごめんね、怜……。私、今も怜に迷惑掛けちゃってる……」


「桜彩。俺にとって桜彩は陸翔や蕾華と同じように大切な相手だと思ってる。迷惑だなんてちっとも思ってない」


 しかし桜彩は目を閉じて首を横に振る。


「私、今までさんざん怜に助けてもらったのに……。今、怜が困ってるのに……力になれない……」


「桜彩。さっきも言ったけど、俺は桜彩がそう思ってくれているだけで嬉しいぞ」


 これは怜の本心だ。

 大切な相手が自分のことを心配してくれている、励まそうとしてくれている。

 それだけで充分力になる。

 しかし当の桜彩は首を振って否定する。


「ごめん、ごめんね、怜……。もう、私、描けなくなっちゃった……。あんなに大好きだったのに、今はもう絵を描くことが出来なくなっちゃった……」


「桜彩……」


 桜彩のトラウマは怜も理解している。

 理不尽な理由で逆恨みされ、周囲を巻き込んで裏切られた。

 もちろん全員が全員そうだったわけではないのだろうが、それでも心が折られるには充分だ。

 程度こそあるものの、同じように周りの友達に裏切られたことがある怜だからこそ、その辛さはより強く共感出来る。


「怜ならそんなことは絶対にしないって分かってるのに……本当にごめんね……」


 そう呟く桜彩の目から涙がぽたぽたと零れ落ちる。


「……桜彩が謝る必要なんてないだろ」


 本来これは怜達ボランティア部の問題であって、桜彩が気に病む必要など全くない。

 むしろトラウマがあるにもかかわらず、そう思ってくれているだけで充分すぎるほどだ。


「でも……」


「なあ、桜彩」


 桜彩の言葉を遮って声を上げると、涙で満ちた瞳を桜彩が向けてくる。

 そこで怜は一回大きく深呼吸する。


「桜彩はどうして絵を描くことが好きだったんだ?」


「え?」


 思いがけない質問に桜彩が目を丸くする。

 そしてしばらく考え込んだ後に口を開く。


「私、は……」


 なぜ絵を描くことが好きだったのか。

 昔、小学生だったころの記憶を手繰(たぐ)ってみる。


「私、お母さんがそっちの方面のアーティストなんだ。今はフリーでデザイン関係のお仕事をしてるんだけど」


 桜彩の言葉に怜が少し驚く。

 しかし何も言わずに桜彩の話の続きを待つ。


「だから、お母さんの真似をして葉月と一緒に子供の頃から描いてたの」


 大好きな母や姉と一緒に描いているだけで楽しかった。

 誰かに褒められたい、良い賞を取りたいと思って描いていたわけじゃない。

 描くこと自体が楽しかった。

 それが桜彩にとっての原点だ。

 それを全て怜へと伝える。


「なのにね、今はもう絵を描けなくなっちゃったんだ。お母さんや葉月との、大切な思い出なのにね」


 目に涙を溜めたまま、無理に貼り付いたような笑顔を浮かべる桜彩。


「…………怜、私、また絵を描きたい! お母さんや葉月と一緒に楽しく絵を描いていたあの頃に戻りたい!  でも、もう描けないの! 誰かに見せて、また同じようなことになったらって思っちゃうと! うう……うわあああんんんんっ!!」


 せきを切ったように桜彩が泣き出す。

 頑張って無理をして作った笑顔が剥がれ落ち、感情をむき出しにして泣きじゃくる。

 怜の胸に顔を当てて、怜の服を涙で濡らす。

 そんな桜彩に対して怜は何を言うでもなく、ゆっくりと頭を撫でた。

 大切な思い出をくだらない逆恨みで台無しにされてしまった。

 同じような経験があれど、その辛さを怜は正しく理解出来るなどとは自惚れはしない。

 でも


「桜彩」


 泣きじゃくる桜彩が落ち着いたところで優しく声を掛ける。

 その言葉に桜彩は顔を上げて怜の方を見る。

 ひとまず怜は一度桜彩をベッドへと座らせて、自分も椅子から降りて桜彩の隣に腰掛ける。

 そして桜彩の顔を見ながらゆっくりと口を開く。


「まず、俺は桜彩の気持ちが全部分かるなんて無責任なことは言わない」


「うん……」


 桜彩もそれは分かっている。

 いつも自分に優しくしてくれる怜だからこそ、そういった無責任なことは絶対に言わないことは。


「なあ桜彩。俺が料理するのが好きなのは桜彩も知ってるだろ?」


「え……? う、うん……」


 急に話題を変えた怜の言葉に不思議そうにしながら桜彩がコクリと頷く。

 毎日一緒に料理を作っている時の怜は、いつも楽しそうな笑顔を浮かべながら料理をしている。

 それを見れば、怜が料理が好きなことは充分に分かる。


「俺もさ、桜彩と同じなんだ」


「え?」


「俺の母さんは料理関係の仕事をしてたんだ。結婚を機に仕事は大きく減らして家庭を優先しているし、たまに活動する時も旧姓で活動しているんだけど」


 それを聞いた桜彩が驚きに目を丸くする。

 色々と似ているところがあると思ってはいたが、そんなところまで一緒だとは思わなかった。


「それでな、俺も姉さんも小さいころから一緒に料理を教わってたんだ。前に言ったけど、たくさん失敗もした。でもな、それでも作ってる時は楽しかった」


「うん……」


「そりゃあ自分で食べたり誰かに食べてもらって美味しいって言ってくれるのも嬉しかったさ。でもな、当時の俺にとっては作ってる時が一番面白かったし楽しかった」


 だれかに食べてもらう喜びを大きく感じるようになったのは、ここ一年のことだ。

 一人で暮らすようになった怜を心配して様子を見に来てくれた陸翔や蕾華、瑠華と一緒に食事を食べ、彼らが美味しいと言ってくれたから。

 それまでの怜は、作っている時が一番楽しかった。


「桜彩。桜彩はさ、自分の描いた絵を誰かに見せて、また裏切られるのが怖いって、それで絵が描けなくなったって言ったよな?」


「うん……。ごめんね、怜や蕾華さん、陸翔さんがそんなことを言う人じゃないってのは分かってるんだけど……」


 それでも当時の一番の友達に裏切られたトラウマはそう簡単に消えるものではないだろう。

 だからそれで怜が気を悪くすることはない。


「うん。だけどさ、桜彩は誰かに絵を見せて褒めてもらいたかったわけじゃないんだろ?」


「怜……?」


「誰かに見せて褒めてもらう為じゃない。ただ、自分が描いていて楽しかったから描いていたんだろ?」


「うん……」


「だったらさ」


 そこで一度言葉を切って深呼吸する。

 この先の言葉の重さは怜にも良く分かっている。

 だがそれでも、怜は大切な相手の為にその先の言葉を続ける。


「俺と一緒に絵を描いてみないか? 紙芝居とかそういうのは今だけは何も考えないで、ただ絵を描いてみないか?」


「怜……」


「ただ絵を描くのが楽しかったんだろ? 別に誰かに見せる必要なんてない。だからさ、俺と一緒に絵を描いてみないか?」


 桜彩が目を丸くして驚く。


「それにな、忘れてるかもしれないけど、俺は桜彩の絵を一度見たことがあるんだぞ。桜彩のことを妬んだり逆恨みしたりなんてしないさ」


「……………………覚えてるよ、ちゃんと。怜と初めて出会った日。あの時、偶然見られちゃったからね。あれだって怜との大切な思い出の一つなんだから」


「そうだな。俺達の大切な思い出だ。良いことも、悪いことも、嬉しいことも、悲しいことも、恥ずかしいことも、全て大切な思い出だ」


 涙を手で拭いながら顔を上げる桜彩。

 風で飛ばされた絵を、怜が掴んでくれた。

 それが二人の最初の出会い。

 先ほどまでの無理やりに作った笑みとは違って自然な笑みを怜へと向ける。

 その笑顔に怜の心がドキリと跳ねる。


「ありがとうね、怜。怜と一緒なら、私、もう一度描ける気がしてくる」


 そう言いながら、桜彩は机の上に転がったままのペンとスケッチブックを手に取る。

 その表情に迷いなど一切なく、先ほどまでの桜彩とは大きく違ってなんだか安心出来るような気がしてくる。


「あの、それで、ね……。怜、手を握ってくれ……あっ、それじゃあ描けないから、その、肩を、ぎゅってしてくれる……?」


「ああ、お安い御用だ」


 桜彩の言葉通り、隣に座る桜彩の肩に手を回して軽く力を込める。

 抱き寄せられた桜彩が笑顔で怜を見上げると、怜も桜彩に微笑を返す。


(ありがとう、怜。触れてる部分から怜の優しさが伝わってくるよ)


 そして桜彩がスケッチブックにペンを近づける。


「じゃあ、描くね」


「ああ」


「何から描こうか?」


「やっぱり猫じゃないか?」


 二人に共通する物をアイデアとして挙げてみる。

 怜の言葉に桜彩がゆっくりと頷く。

 そして迷いなくペンを紙へと走らせた。


「……………………描けたな」


「うん、描けたよ」


 そこには桜彩がよくメッセージアプリで使うスタンプに似たイラストが描かれていた。

 これまで全く描けなかったことなど忘れたかのように、まるで当たり前だと言わんばかりに堂々と自信満々に頷く桜彩。


「実はね、このイラストを作ったの、私のお母さんなんだ」


「そうなんだ。凄いな」


 いつも桜彩が送ってくる可愛いデフォルメされた猫のイラスト。

 まさか桜彩の母の作品だとは思わなかった。


「ほら、怜も描こ?」


「ああ」


 元々は一緒に絵を描こうと提案したのだ。

 抱き寄せた桜彩の肩から手を離すと桜彩が少し残念そうな表情をする。

 だがそれを怜には見せずにペンとスケッチブックを怜に渡す。

 それを受け取って桜彩の隣で怜も猫の絵を描いていく。

 しかし当然というか、やはり怜の描いたものは猫とは言い難い謎の物体となってしまった。


「ふふっ、怜、それはちょっと似てないんじゃない?」


「しょうがないだろ、俺に絵心はないんだから」


「怜、ここはこういう風に描いた方がね……」


 楽しそうに、嬉しそうに怜に絵のアドバイスをしてくれる。

 それを真似して怜も絵を描いていく。


「うーん、やっぱりダメだなあ」


「でもさっきよりは良いと思うよ」


 猫をはじめとして二人で色々な物を描いていく。

 楽しそうに手を動かし、紙の上にどんどん線が描かれていく。


(ああ、これが本来の桜彩なんだな)


 出会ってから今に至るまで、桜彩は色々な姿を見せてくれた。

 そして今、かつて失った姿を取り戻して、それを怜へと見せてくれる。

 横顔に見とれていると、桜彩も怜の方へと目を向ける。


「ふふっ、ふふふっ」


「ははははは」


 目が合って、互いに笑いだしてしまう。


(良かった。本当に良かった)


 楽しそうに絵を描く桜彩の表情は、これまでに見たことのないくらい素晴らしいものだった。

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