第60話 ベランダでのデュエットと見えてしまった洗濯物

 朝食後、桜彩が自室へと戻った後、怜は洗濯機の中から洗濯物を取り出してベランダへと出る。

 専用の布で物干し竿を拭いた後、物干しハンガーを取り付けて洗濯物を干していく。

 怜の場合、一人暮らしの男子高校生にしては洗濯物の量はそこそこ多い。

 トレーニングウェア、下着類、各種タオルが二セットずつ、それに加えて私服やワイシャツやエプロンといった物が一セットずつが基本だ。

 それに加えて体育など学校で運動する機会があると更に増える。

 一人暮らしの大学生の場合、洗濯頻度は週に二、三回が多いようだが、怜の場合は毎日だ。

 まだ四月も下旬に差し掛かったところであり、ベランダから遠くの方を見ると桜が咲いているのが分かる。

 少し風があるのか花をつけた枝が小刻みに揺れており、たまに強く吹く風で桜の花びらがゆっくりと舞い上がる。

 それを見ているとなんとなく心が落ち着くような感じがして、この景色を見るのはこの時期に洗濯物を干す時のささやかな楽しみになっている。

 この日もいつもの通り洗濯物を干していたのだが、干し終わった後でいつもと違って隣のベランダから歌声が聞こえてきた。

 耳に優しく響くその歌声は、眼下を彩る桜並木の景色に重なって怜の心を優しく撫でる。


(この歌……)


 聞き間違えることなんてない。

 毎日のように聞いている声。

 大切な友人の歌声だ。

 おそらく日本人の大半が知っているであろう桜を謳った日本民謡。

 それが今はまるで別の曲のように感じ、思わず聞き入ってしまった。

 歌が終わると我に返った怜は、知らずの内に拍手していた。


「えっ!?」


 拍手の音が聞こえたのか、隣のベランダから驚いたような声がする。

 一拍遅れて防火扉の外側から桜彩が顔だけを覗かせてこちらを見てくる。


「怜? もしかして今の……聴いてた……?」


 恥ずかしそうに顔を赤くして照れながら聞いてくる桜彩。

 結果として盗み聞きしていた形になった怜も申し訳なさから頭を下げる。


「あ、悪い。洗濯物を干してたら聞こえてきたから」


「あ、ううん。そうだよね。そういうこともあるよね。ああ、失敗したあ……」


 桜彩が手すりへと顔を押し付けるようにがっくりとうなだれる。

 確かに誰もいないと思って歌を口ずさんでいる所を見られたり聴かれたりしたら恥ずかしい。

 実際に怜にもそういった経験は多少ある。


「いや、でも恥ずかしがることじゃないだろ。凄かったぞ今の歌声」


「そ、そう……?」


 伏せていた顔を上げて目を丸くして驚く桜彩。

 そんなことを言われるとは思っていなかったのか、どんな表情をしていいのか迷っているようだ。


「ああ、本当に。思わず聴き入っちゃったからな。なんて言うか、心に溶け込んでくる感じがした」


「ふふっ、ありがと。怜にそう言ってもらえるのは嬉しいよ」


 聴いたばかりの歌を思い出しながら怜がそう言葉を続けると、そこで桜彩は笑顔を浮かべる。

 洗濯物は既に干し終えている為、桜彩と会話する為にベランダの端まで移動する。


「あっ、怜。ほら、あそこ見て! 猫ちゃんが居るよ」


 外の一角を指差しながらそう言ってくる桜彩。

 指し示す方を見ると、確かに猫が塀の上で丸くなっていた。


「本当だ! 良く見つけたな」


「うん。私は猫が大好きだからね」


 そう話していると、いきなり猫が立ち上がって体を震わせたかと思うと走り去っていった。


「ああ、残念。もっと眺めていたかったなあ」


「そんなに猫を見たいなら、また猫カフェでも行くか?」


 先日、怜のトラウマを克服に行った時のことを思い出す。

 一度トラウマを克服してしまえば、後はもう猫好きの二人がただ楽しむだけの時間となった。

 その時の楽しさを二人共絶対に忘れないだろう。


「うん。また行こうね」


「ああ。また行こう」


 そう言って小指を立てた右手を桜彩の方へと差し出すと、その意図を察した桜彩が同じように右手の小指を搦めてくる。


「ふふっ、約束だね」


「ああ、約束だ」


 何気ない桜彩とのこういったやり取りが心地好い。

 そして指切りをした後、どちらからともなく手を離す――――のが指切りの作法なのだが、二人揃って小指を搦めたままその指先を見つめてしまう。


「…………」


「…………」


 少しの時間の後、お互いに顔を見合わせると、それぞれの顔が少し赤くなっていた。


「えっと、その……」


「う、うん……」


「は、離すぞ……」


「うん……離すね……」


 二人共そう言うが、言葉に反して二人の指は離れない。


「……………………」


「……………………」


「…………せ、せーの、で離すか!」


「…………そ、そうだね!」


 慌てるように言う怜の提案に、同じく慌てながら桜彩が頷く。


「そ、それじゃあ……せーの……」


 その声と共に、二人の指がゆっくりと離れていく。

 完全に離れた後も、二人は名残惜しそうに自分の指を眺めている。


「ふふっ、なにやってるんだろうね、私達」


「はははっ、なにやってるんだろうな、俺達」


 今、自分達がやっていたことを考えると笑いが込み上げてくる。


(でも、もうちょっと桜彩と繋いでいたかったな。なんていうか、桜彩を感じられて気持ち良かった)


(でも、もうちょっと怜とつないでいたかったな。ふふっ、まだ怜の感触が残ってるみたい) 



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 そして二人は他愛のない雑談へと移っていく。

 学校では仲の良いところを見せない二人がこうやって普通に話すことが出来る時間がなんだか心地好い。


「それじゃあ怜。さっき私の歌を聴いたでしょ? 今度は怜が歌ってみて」


「えっ!? 何で!?」


「だって私だけ怜に聴かれちゃったんだよ。不公平じゃない」


 頬を膨らませて少しむくれながらそう不満を口にする。

 とはいえ目は笑っているので本気で不満に思っているわけでもなさそうだが。


「いやいや、俺は歌うの得意じゃないし」


「別に良いじゃない。例え怜が歌うのが下手でも私は笑ったりはしないよ」


「それはそうだろうけどさ」


 まあ桜彩の場合はそんなことはしないだろう。

 とはいえ恥ずかしいものは恥ずかしい。

 そんなわけで更に断ろうと桜彩の方に向き直った瞬間、その奥にあるそれに気が付いた。

 上下セットになっている白い衣類、それは間違いなく――


「あっ……!」


 慌てて目を逸らして逆方向を向いてしまう怜。

 当然ながら、その怜の行動に桜彩は疑問符を浮かべる。


「怜? どうかしたの?」


「い、いや、その……」


 正直に伝えるべきか、それとなく匂わせるべきか。

 いきなりのことに怜の頭は上手く働かない。


「むーっ! ちょっと怜、こっち向いて!」


 桜彩が不満げな顔をしてこちらのベランダを覗き込んでくる。

 先ほどとは違って、今回は本気で不満に思いながら。


「そ、その、な……桜彩……」


 顔を背けたまま口を開く怜。


「怜?」


「その、桜彩の奥にだな……」


「奥?」


 怜の言葉に桜彩が少し考えながら後ろを振り返る。

 そして怜が顔を背けた事実を理解した。

 怜が洗濯物を干していたように、桜彩も洗濯物を干しながら歌っていたのだ。

 そして洗濯物の中には当然下着も存在する。

 四階という高層階ではあるが、桜彩は外からそういった物が見えないように気にした配置で干してはいる。

 しかし、今の怜はほぼ真横から桜彩の部屋のベランダを除く格好になっていた。

 当然ながらその角度では外に向けた目隠しは意味をなさない。


「あっ……!」


「わ、悪いっ!」


 桜彩の方も瞬間的にボッと顔を赤くしてしゃがみこんでしまう。

 そのままお互いにベランダの仕切り板を背にして言葉を失う。


「ほ、本当にごめん! そ、そんなつもりはなかったんだけど……」


「う、ううん! こ、こっちこそ気が付かずにごめんね……」


「い、いや、桜彩が謝ることじゃ……」


「で、でもその……私も気が付かないでこっちを向いてって言っちゃったし……」


「………………」


「………………」


 再びの無言。

 そのまま少し時間をおいて、少し平静さを取り戻した桜彩が口を開く。


「え、ええっと、ちょ、ちょっと待ってね」


「あ、ああ……」


 怜の返事を聞いて立ち上がった桜彩は、洗濯物の配置を変える。


「も、もう大丈夫だから。そっちから見えないようにしたから。だから怜、こっちを向いても大丈夫だよ」


「わ、分かった……」


 怜も立ち上がってベランダから顔を出して桜彩の方を見る。

 お互いにまだ顔が赤いまま視線が交差する。


「その、怜……見た、よね……?」


 何が、とは言わない。

 ここで見てないと言うことは出来るが、さすがにそう言ったところで桜彩は信じないだろうし怜としてもそこをごまかすのはどうかと思う。


「あ、ああ……」


「そ、そっか……」


 そしてお互いに下を向いてしまう。


「あ、あの、怜……。へ、変じゃ、なかったよね……?」


「…………へ?」


 一瞬何を言われたのか分からなくなって、間抜けな声を上げてしまう。

 その声で桜彩も正気を取り戻した。

 ぼんっ、と音がしそうなほど顔を赤くした顔を両手で覆い隠す。


「そ、その、変では、なかったと思う、けど……」


 恥ずかしながらも、先ほどの光景を思い出して言葉にする怜。

 別に派手な色やデザインというわけでもないだろう。

 一般的な女子高生がどのような下着をつけているのかは分からないが。


「そ、そう……良かったぁ……って違う、違うから! うぅ……私、何を言ってるんだろう……」


「えっと、もう一回謝らせてくれ。本当にすまなかった。今後は気を付ける」


「ううん。私も気にするべきだったし、別に怒ってるわけでもないから。それにその……私は怜になら見られても良いって思って…………う、ううん、何でもない!」


 またもや焦って変なことを言おうとして、間一髪で言葉を飲み込む桜彩。


「そ、それじゃあ今回のことはお互いさまって事で! れ、怜もそれで良いよね!?」


「あ、うん。それじゃあそういう事で」


 さすがに桜彩が謝ることではないとは思うのだが、怜から見て被害者である桜彩がそう言ってくれるのならそれに合わせることにする。

 むしろここで変に意地になって余計話がこじれる方がお互いにとって問題だろう。

 そんなわけでお互いにこの話はここで終わりという事で合意した。


「でもさ、やっぱり私は怜の歌も聴きたいな」


「うーん、と言ってもなあ」


 怜としては別に歌は苦手というわけではないが、さして自信があるというわけでもない。

 カラオケには何度か行ったこともあるが、そもそもああいった場は例え歌が下手でもテンションだけで盛り上がるものだ。

 ちなみに陸翔はかなりの音痴であるが、それを含めて蕾華と共に盛り上がった。


「怜。歌お?」


 期待に目をキラキラと輝かせた笑顔で桜彩が提案してくる。

 その笑顔を見て怜もついに根負けする。


「分かった。それじゃあ……」


 そう言って怜も桜彩が歌っていた民謡を歌いだす。

 さすがに桜彩とは比べるべくもない(と怜は思っている)腕前だが、不思議と先ほどまで感じていた恥ずかしいという気持ちはいつの間にか消え去っていた。

 怜の紡ぐメロディを、桜彩は目を閉じて優しい表情で聞いている。

 そして一通り歌い終えた後、桜彩は先ほどの怜と同じように拍手をする。


「凄いよ怜! 謙遜することなんてないじゃない!」


 はしゃぐようにテンション高く桜彩が褒めてくる。

 正直褒められるような歌声だなんて思えないのだが。


「いや、さすがに桜彩の足下にも及ばないだろ」


「ううん、そんなことない。私は怜の歌声の方が素敵だと思う!」


「そんなことないって。桜彩の方が上手だ」


「違うよ。怜の方が素敵だって」


 お互いに謙遜ではなく本心からそう思って相手を褒める。

 そのままお互いに褒め合った後、二人共つい笑いが込み上げてきた。


「あはははは!」


「あはは!」


 ひとしきり笑った後、お互いの顔を見て再び笑みが込み上げる。


「あー可笑しかった!」


「本当だね!」


 そしてどうにか笑いが収まった後、桜彩が一つ提案をする。


「ねえ、怜。せっかくだし一緒に歌ってみない?」


「そうだな。それも面白いかも」


 そして二人は頷き合って、今度は同時に歌い始めた。


(ふふっ。怜と一緒に歌うのって、なんだか楽しい)


(桜彩と一緒に歌うのって、なんか楽しいな)

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