第34話 お礼のマドレーヌとクールさんの嫉妬 ~あなたのことを名前で呼びたい、あなたに名前で呼ばれたい~

 アパートへと戻った二人は早速夕食の支度に取り掛かる。

 今日のメニューはホワイトシチューにすることにした。

 本来であれば怜はルーも自作するのだが、桜彩の練習の為に市販の固形ルーを使用することにする。


「はあ、色々と疲れました……」


「全く、瑠華さんも宮前の奴も……」


 桜彩と怜が部活での様子を思い出しながらぼやいてしまう。

 怜は奏との付き合いも長い為にそういったからかいも慣れているが、桜彩にとっては大変だっただろう。

 もっとも怜としても慣れているというだけで疲れることには変わりないが。


「それで、どうだった? 初めてのお菓子作りは」


「そうですね……。大変でしたけど楽しかったです」


 部活での出来事を思い出しながら、疲れた表情から一転して笑顔を浮かべて答える桜彩。

 桜彩の返答に怜もつられて笑顔になる。


「まあ、それが一番だからな。お菓子作りに限らず料理が楽しいと思えば上達も早くなるだろ」


「ふふっ。それなら良いですね」


 クスッと口元を隠しながら桜彩が笑う。

 そのまま二人で部活での出来事を楽く話しながホワイトシチューを作っていく。


「ですが、宮前さんが光瀬さんのことを『きょーかん』と呼ぶのはそれが理由だったのですね」


「ああ。家庭科部では俺が先生役をやることが多いからな。ていうか、少なくとも今の三年生は先々代の部長をしてた俺の姉さんから色々と教わってるんだからもう少し出来ても良いと思う」


「ですが、上級生からもきょーかんと呼ばれているのは、それだけ光瀬さんが慕われているからだと思いますよ」


「む……」


 桜彩の指摘に怜が恥ずかしそうに斜め上を見上げながら頬を掻く。


「……まあ宮前のからかいには困ったけど」


 怜がそう言うと、そのことを思い出した桜彩が少しむくれた顔をする。


「……そう言えば、光瀬さんって宮前さんと仲が良いですよね」


「ん……まあ、な。去年はクラスは違ったけど部活は同じだったし、宮前は蕾華と仲が良かったから」


 蕾華と同じクラスで仲の良い奏は、怜と絡む機会が他の女子に比べて多かった。

 あまり他人と関わっていくのが上手ではない怜にも持ち前のコミュニケーション能力でグイグイと来るし、からかってくるわりに不快感を感じさせない雰囲気の柔らかさも持っている。

 そういった意味で人当たりの良い彼女は怜とは良い友人として付き合っていた。


「っと、なんか来た」


 話していると怜のスマホが震えたので、シチューをかき混ぜる役を桜彩へと交代してスマホを確認する。

 するとちょうど今話していた奏からメッセージが届いていた。

 写真も張り付けられていたので確認すると、どうやら今日の部活の様子を撮影した物のようだ。

 というか、こんな写真を撮られていたことに気が付いていなかったのが少し悔しい。


「……宮前さんからですか?」


 先程と同じく少しムッとしながら桜彩が聞いてくるので、それに頷いて返事を返す。

 すると桜彩が少し顔を下げて、何やら考え込むようにしている。


「渡良瀬?」


「やっぱり光瀬さんって宮前さんと仲が良いですよね。それに竜崎さんや御門さんや竜崎先生とも」


「え? まあ仲は良いけれど……」


 いきなりの桜彩の言葉と雰囲気に少し戸惑いながら答える。

 何か変なことを言ってしまったのだろうか。

 そのままお互いに少し沈黙した後、桜彩が怜に向かって


「あの……れ……れ……光瀬さん……」


 下を向いたまま、最後は消え入りそうな声で怜を呼ぶ。


「渡良瀬?」


 首を傾げて桜彩の方を見ると、桜彩が顔を赤くしながら怜の方へと視線を向けた。

 そして何かを決意したような表情をすると、再び口を開く。


「あの……れ……れ……れい……さん……」


 先ほどと同じく消え入りそうな小さな声で桜彩がそう口にして再び下を向く。

 しかしその言葉はちゃんと怜の耳にも届く。

 桜彩にいきなり名前で呼ばれ、驚いて何と言葉を返していいか分からない。


「……渡良瀬?」


 返事に迷った末、そう答えるのが精一杯だ。

 桜彩は一度目を瞑って深呼吸をし、決意したように頷くと怜の顔を見る。


「あ、あの……皆さん、光瀬さんのことを名前や愛称で呼んでいるじゃないですか! なので……その……私も友達として、そう、呼んでは…………いけませんか…………?」


 口元に手を当てたまま恥ずかしそうにそう言って、赤くした顔で怜を見つめる桜彩。

 あまりの可愛らしいお願いに、怜の心がドキッとする。


「ん……まあ、俺は構わないけど」


 桜彩の仕草に怜も照れながら、しかしはっきりと肯定の返事を返す。


「ありがとうございます」


 桜彩は嬉しそうに怜に向かって柔らかく微笑んだ。

 その笑顔を見た怜も照れくさくなってしまう。

 桜彩は怜に対してあくまでも仲の良い友達として接しているだけで、そこに異性としてどうこうという感情は一切ない。

 それは怜の方も同様なのだが、さすがに桜彩の様な美少女にそのような笑顔でそんな可愛いお願いをされてしまっては勘違いしてしまいそうになる。


「それじゃあ、俺も渡良瀬のことは……その……さ……桜彩って呼んでも良いか……?」


「えっ?」


 驚きに目を丸くして口元を抑える桜彩。

 そちらの方は全く考えていなかったらしい。


「俺もその……渡良瀬と仲良さそうに話してる蕾華や宮前にモヤっとすることあるし」


 照れながら視線を逸らしてそう呟く怜。

 それを聞いて桜彩もさらに顔を赤くしてしまう。


「は、はい……ありがとうございます……?」


「い、いや……こちらこそ……?」


 二人共何を言っているのか良く分からないまま顔を赤くして、お互いの顔を見ることが出来ない。

 桜彩は下を向いたまま何度か深呼吸をして意を決して口を開く。


「すー……はー……すー……はー…………。そ、それじゃあ呼びますね! そ、その……れ…………れ…………れ……い……さん…………」


「あ、ああ。…………さ……や……」


「れい……さん……」


「さ……や……」


「れいさん……」


「さや……」


「………………………………」


「………………………………」


 二人揃って恥ずかしさから顔を耳まで赤くして下を俯いたまま黙り込んでしまう。

 そこでシチューがぐつぐつと音を立てた。

 それで二人共我に返ってお互いの方を見て、慌ててそちらの方を向く。


「に、煮立ってしまいましたね!」


「あ、ああ! とりあえず完成させてしまおうか、渡良瀬! ……いや、桜彩」


「!! は、はい! 怜さん」


 どちらからともなく笑いあって、夕食の準備に戻る。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「それじゃあ桜彩、今日も味をみてもらえるか?」


「はいっ!」


 昨日と同様に嬉しそうに桜彩がそう答える。

 戸棚から小皿を取り出そうとする怜だったが、そこに桜彩から思いがけない言葉が掛けられる。


「あ、あの……怜さん! もしも怜さんがよろしければ、その……そのままでも大丈夫ですので……」


 赤くした顔を横に向けながらそう小さく呟く桜彩。

 それを聞いた怜も皿を取ろうとした体勢のまま、桜彩の方に向けている顔が赤くなってしまう。


「え、えっと……桜彩?」


「あ、いえ、その……あ、洗い物が増えるじゃないですか! その、竜崎さんや御門さんとはそのようにしているのですよね? わ、私でしたら気にしませんので怜さんもお気になさらず!」


 耳まで赤くなった顔で怜の方に向き直り、両手を合わせて恥ずかしそうに、しかし必死にそう告げてくる。


「だ……駄目……ですか?」


 まだ怜が固まったまま反応出来ないでいると、桜彩が少し悲しそうな目をして再び問いかけてくる。

 そのうるうるとした目と仕草から、桜彩に対して子猫のような印象を抱いてしまう。


「そ、その……竜崎さんや御門さんとはそのような関係を築いているじゃないですか。ですので、私ももっと怜さんと仲良くなれたらと思って……」


 それだけ言って怜から顔を背けてしまう。

 正直その仕草は反則級だ。

 こう頼まれては断ることなど出来はしない。


(まあ、別に俺も嫌ってわけじゃないし、なら俺が気にしなければ良いことか……)


 そう割り切った怜は小皿を取るのをやめて、シチューの中から鶏肉を菜箸で一切れ摘まんで差し出す。


「そ、それじゃあ桜彩……」


「は、はいっ! いただきますね!」


 怜の差し出した鶏肉をふうふうと冷ましてからパクッと口に入れる。


「ど、どうだ?」


「は、はい! お、美味しいです……」


「そ、そうか。な、なら良かった……」


 そのまま二人で顔を赤くして無言になってしまう。


(う……これは、恥ずかしいな……。これまで陸翔や蕾華、瑠華さんには普通に出来てたんだけど、桜彩にするのはなんか……凄く……)


(うぅ……恥ずかしくて味なんて分からないよ……)


 その後は二人ともお互いを見ることが出来ず、言葉少なくシチューを完成させた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あの、怜さん。少しよろしいでしょうか?」


 食べ始めた時はまだぎこちなさが残っていた二人だが、食べていくうちにいつもの調子を取り戻した。

 そして二人で片付けを終わらせた後、桜彩に声を掛けられて振り向く怜。


「ああ。何かあったのか?」


 お茶を用意して席に着くと、桜彩が傍らに置いてあった紙袋から小さな袋を取り出す。


「あ、あの、これをどうぞ……!」


 差し出されたそれは怜にも見覚えがあった。

 つい先程まで学校の家庭科室で作っていた物。

 桜彩の焼いたマドレーヌだ。

 少し恥ずかしそうにしながら桜彩が差し出したそれを受け取る。


「え? 俺に?」


 これは蕾華に渡すのではなかったのかと疑問が湧いてくる。


「は、はい……! 怜さんに、です……」


 そのまま怜が固まっていると、桜彩が更に言葉を続ける。


「い、いつもお世話になっているお礼にと思って……食べていただけますか? その、ポスターには初心者でも簡単に作れるとありましたので……。でも、まさか怜さん本人に教えてもらうことになるとは思いませんでしたが……」


 先ほどのことを思い出しながら恥ずかしそうに顔を赤らめる。

 桜彩にとっては本当に予想外であったのだろう。


「その、怜さんの作る物と比べて上手に出来たとは言えないかもしれませんが……」


 桜彩を横目に怜は袋からマドレーヌを一つ取り出して口に入れる。

 あっ、と驚く桜彩を横目にマドレーヌを食べる。

 怜の反応を不安そうにそわそわとしながら、しかし感想を聞きたい桜彩。


「うん。美味しく出来てるぞ」


 一つ食べ終わってそう感想を告げると、桜彩は嬉しそうに、そして安心して胸を撫で下ろす。

 一緒に作ったのに少し硬かったり焦げていたりした人もいたのだが、そのような事はなかったようだ。


「良かったです。クスッ、少しだけ光瀬さんの気持ちが分かったような気がします。嬉しいですね。自分の作った料理を美味しいって言ってもらえるのは」


 花の咲いたような満面の笑みを浮かべてそう言ってくる桜彩。

 その笑みにドキッとして思わずマドレーヌを口に詰まらせてしまい慌ててお茶を飲む。

 そして照れているのを隠す様にしてマドレーヌをまた一つ取り出すと、桜彩に向かって差し出す。


「ほら、桜彩も食べてみろって」


「はい! ……………………確かに美味しいですね」


 差し出されたマドレーヌをそのまま桜彩が食べる。

 てっきりマドレーヌを受け取って食べると思っていた怜が驚く。


「怜さん? どうしましたか?」


「あ、いや、そのまま食べるとは思わなかったから……」


「えっ? ……あっ!」


 桜彩もようやく気が付いたのか顔が赤くなってしまう。

 差し出された怜の手の中のマドレーヌをそのままパクリと食べてしまった。


「で、でも……友達だったら……おかしくないですよね……?」


「ん……ま、まあ、そうなのかな……?」


「そ、そうですよね。名前で呼ぶくらいの友達ならおかしくはないですよね?」


「そ、そうだな。もう桜彩って呼んでるからな」


「…………ふふっ」


「…………ははっ」


 気まずさを隠すためにお互いに笑い合う。


「でも怜さんに桜彩って呼ばれるとなんだかくすぐったいですね。姉にはいつも言われてるのですが。自分から望んだことなのですけど、とっても恥ずかしい……」


 花の咲いたような満面の笑みを浮かべて照れる桜彩に、怜の顔が今日一番赤くなる。


「お、俺も、その、桜彩に怜って呼ばれるとくすぐったい……。姉さんには怜って呼ばれてるけど、蕾華も瑠華さんも『れーくん』呼びだし、宮前に至っては何度言っても『きょーかん』呼びだから……。だから怜って呼んでくれる女子は姉さんを除けば桜彩だけなんだ……。でも、その、俺も嬉しいよ」


「う、嬉しい、ですか……。あ、ありがとうございます……。その、私も桜彩と呼んでくれる男性は怜さんだけなので……。でも、私も嬉しいです……」


「そ、そうか、嬉しいって思ってくれるんだ……。なんかそれも嬉しいな……」


「は、はい……。わ、私も怜さんに嬉しいって思ってもらえて更に嬉しくなりましたし…‥。そ、それではここはひとつ、お、お相子ということで……」


「あ、ああ……。お。お相子だな……」


「ふふっ、ふふふっ……」


「ははっ……」


 お互いが顔を赤くして下を向いてしまう。


「っと、そうだ、マドレーヌ、まだ残ってるよな! た、食べようか!」


「は、はい! た、食べましょう!」


 そして二人は笑いながら、恥ずかしさを隠すようにマドレーヌを食べていった。

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