第3話 朝のすれ違いと新学年の初日
午前五時半過ぎ、いつものように自室で目を覚ました怜は、そのままベッドの上で伸びをする。
「ふぁ……眠い……」
と言ってもいつまでも寝ているわけにもいかないので、二度寝の誘惑を振り払ってベッドから降りる。
眠気覚ましに洗面所で顔を洗い、歯を磨いてから身支度を整えると寝間着として使用しているトレーニングウェアの上からスマホや鍵などを入れたフリップベルトを着用して外へと向かう。
四月に入って数日が経過し、今日から晴れて新学期の始まりだ。
とはいえ朝の景色がいきなり変わるわけでもない。
昨日とほとんど変わらない肌寒さを感じながらエレベーターを使わずに階段で一階までまで降りて、エントランスを通過して外へと出る。
毎日の日課であるランニングだ。
さして都会というわけでも田舎というわけでもないこの辺りの風景はやはりいつもと変わらずに、道路にはまだ車も少なく歩道にも人を見かけない。
そんな中、いつものコースをいつものように走っていく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ふう。なんか気温も上がってきたかな?」
走る前はあまり変わらないと思ったのだが、今日はここ数日に比べて少し暖かくなってきたように感じる。
そんなことを考えながらランニングを終えた後、いつものように自宅のアパートへと戻り鍵を取り出してエントランスを通過しようとする。
するとアパートの中から三日ほど前に隣に越してきた渡良瀬と名乗った少女が出て来た。
その手に抱えているのはごみ袋。
今日は燃えるごみの日なので、おそらくそれだろう。
中は良く分からないが、そもそも他人のごみに対して興味もない。
すると相手の方もこちらに気が付いたようで、お互いに会釈だけしてすれ違う。
別にお隣さんだからと言ってフランクに挨拶をする必要もない。
そのまま怜は階段を昇って自室へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「よし、と。完成」
自分の部屋へと戻った後、シャワーを浴びてから私服に着替えて朝食の準備を始める。
今日の朝食は白米にベーコンエッグ、サラダ、味噌汁といった、ごく普通のメニューだ。
ベーコンエッグを皿に乗せ、フライパンに水を溜めてから朝食をリビングのテーブルへと運びこむ。
大体六人程度で使うであろう広いテーブルへ朝食を乗せた後、椅子に座って手を合わせる。
「いただきます」
誰に言うでもなく自然と言葉が出てくる。
この一年ですっかりと日課になった光景だ。
「うん、今日も美味しい」
自家製ドレッシングの掛かったサラダを頬張りながら、そう一人で呟く。
しかし怜の顔は美味しいものを食べているにもかかわらず若干の陰りがあった。
「はあ…………やっぱり寂しいな」
そう呟いた先の対面の椅子には、かなり大きい猫のぬいぐるみが座っている。
もちろんぬいぐるみは怜の言葉に反応などしない。
「はあ……」
それを理解しながらも、怜は再びため息を吐いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一年と少し前、仕事の都合で怜の両親が遠方へと引っ越しすることになった。
残る家族である三歳年上の姉は大学受験に合格し、既に家を出る準備を進めている。
本来であれば怜も両親と共に引っ越しそちらの高校へ編入試験を受けることが普通なのだろうが、怜は地元へと残ることになった。
その際に怜が住みやすいようにということで、両親は学校の近くに新たにアパートを借りてくれた。
しかも学生が一人暮らしするにあたってはかなりのオーバースペックのアパートをだ。
オートロックやモニター付きのインターホン、鍵は防犯性の高いディンプルキー、しかも間取りは2LDKというむしろ社会人よりも良い所に住んでいると思う。
怜としてもそれはさすがに両親に対して申し訳ないと思ったのだが、怜を大切にする両親に押し切られた形だ。
そして始まった一人暮らしだが、最初から順風満帆とはいかなかった。
怜としては自分の炊事、掃除、洗濯のスキルは問題無いと思っていたので、一人暮らしなど簡単に出来ると高をくくっていた。
しかし実際にやってみると、事態は想定通りとはいかなかった。
炊事に関していえば、確かに料理は出来るのだが一人分の食材を自分で購入した経験などはない。
例えば数人分の量であれば味付けに使う調味料の量を少し多く入れてもリカバリーを利かせやすかったのだが、一人分という少量であればそうもいかない。
また食材の買い物でも多くの量を買って余らせてしまうということもあった。
掃除や洗濯でも同じように、想定外のことが色々とあった。
そんな感じで失敗を繰り返しながら成長し、一年が経過した今は自分でもほとんど問題なく生活出来ていると思えるようになった。
とはいえやはり一人きりの食事というのは物寂しい。
こればかりは一年程度で慣れるものではなかった。
(まあ無い物ねだりをしてもしょうがないか)
そう考えながら食事を終えるとケトルでお湯を沸かしている間に手早く食器や調理器具を洗ってしまう。
そしてコーヒーを淹れて一息つく。
これで朝の慌ただしい時間は終わり、登校時刻までは制服に着替えること以外に特にすることはない。
外の景色を見ながら何をするでもなくコーヒーを飲んでいく。
(そういえば、今日は燃えるごみの日だったか)
ふと先ほどすれ違った相手のことを思い出す。
(そういえば、俺も最初は失敗したな)
当時のことを思い出すと、つい苦笑が漏れてしまう。
一年前、ごみを出して学校に行き、戻ってきたら自分が出したごみだけが回収されずにごみ置き場に残されていた。
元々住んでいた家から近いとはいえ、分別方法が違っていたことに気が付かずにごみを捨ててしまったのだ。
半透明のビニールから間違えた分別の物が見えたので、回収業者が持って行ってくれなかったのだろう。
(懐かしいな)
そんなことを考えながらゆっくりしていると、時刻はそろそろ八時になる。
怜の通う
そう思って自室へと戻り制服に着替える。
姿見の前に立って自分の制服姿に変な所がないか確認しながら
(この一年で馴染んだかな?)
などと考えてしまう。
一年前は怜の目から見ても着慣れているとは言いにくかった。
「っとそろそろ行くか」
そして忘れ物がないかを確認し、玄関へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
領峰学園にたどり着くと、そこにはまだあまり人がいなかった。
人混みが苦手である怜にとってはまあ嬉しいことで、邪魔されることなく掲示板を確認してクラスへと向かう。
クラスの中には数名の新たなクラスメイトが既に登校しており、お互いに『おはよう』と簡単に挨拶する。
黒板に張り出されていた座席表を確認して自分の席に着いて一段落。
手持無沙汰の為、スマホをいじっていると、徐々にクラスメイトが登校してきて教室もにぎやかになっていく。
その内の何人かと簡単に挨拶を交わしながら座っていると、教室に二人の男女が入って来た。
「よう、怜! お久ー!」
「おはよ、れーくん。今年は同じクラスだね」
その顔を見て怜の顔が明るくなる。
小学生の頃からの怜の親友、
二人共社交的で友人が多く、ムードメーカー的な存在だ。
ちなみに二人は幼馴染みで結構前から付き合っている。
今の二年生で、つまり昨年度の一年生で誰が有名か、と聞かれたらこの二人に怜を加えた三人組の名前が真っ先に上がるだろう。
怜から見ても、二人共外見は良いし、もちろん中身も良い。
友人のことを大切にするし、周りの空気を明るくすることに長けている。
それに比べて怜の方は外見は陸翔に負けず劣らず整っていて評判も高いのだが、陸翔と違って普段は落ち着いた雰囲気で一歩引いたポジションを取っており、悪く言えばあまり積極的にコミュニケーションを取りに行かない。
だだ陸翔や蕾華は積極的に怜を人の輪の中に入れようとしてくれる為、結果的に怜も友人は多い。
それに怜自身は二人のように誰にでも積極的コミュニケーションを取る人間ではないが、友人とは仲良く話もするしちゃんとコミュニケーションを取っている。
初対面の相手や付き合いの浅い相手に苦手意識があるだけだ。
「おはよう、陸翔、蕾華。今年は全員同じクラスだな」
「ほんとにねー! 去年はアタシだけ別だったから寂しかったなあ!」
「と言っても結構ウチのクラスに来てたけどな」
「確かに」
昨年は怜と陸翔は同じクラスであったのだが、蕾華のみが別クラスとなっていた。
その為蕾華はよく怜と陸翔のクラスにやって来ていたし、三人全員が弁当組なので学食を利用する生徒の席を借りて一緒に昼食を食べることも多かった。
ただその際に必要以上に陸翔といちゃつくのはどうかとは思ったのだが。
別にこの二人が仲の良いのは怜にとってもとても喜ばしい事なのだが、他のクラスメイト、特に付き合っている相手がいない者からすれば目に毒だろう。
「でも今年は同じクラスだからね! これで人目を気にすることもなく二人と話せるよ!」
「あまり人目を気にしてた感じはしないけどな。一年の時は完全に自分のクラスのつもりでこっちの教室に入って来てたし」
嬉しそうに話す蕾華に怜が苦笑してツッコミを入れる。
実際に蕾華が人目を気にしていたところなど記憶にない。
「ははっ、まあ細かいことはいいじゃねえかよ、怜」
「そうそう、りっくんの言う通り細かいこと気にしてるとハゲるよ。せっかくれーくん見た目が良いんだから」
「ちょっと、怖いこと言わないでくれよ」
「あはははは、ごめんごめん」
「くくっ」
「笑い事じゃないっての」
二人のジョークに口を歪めて髪を確認しながら怜が抗議する。
まだ十代で早くもハゲになりたくはない。
と言っても本当に怒っているわけではないのだが。
「それにしても席の配置もほぼ完璧だよね」
「確かにな。オレもそれは思ったぜ」
五十音順で張り出されていた座席表には、窓際から二列目の最後尾に怜、その手前に陸翔。
そして窓際の列の後ろから二番目、つまり陸翔の隣で怜の斜め前の席が蕾華である。
「綺麗に三人で固まったな」
「ほんとだよね。これはやっぱり去年の運の悪さの揺り戻しかな?」
「いや、オレらの日頃の行いが良いからかもしれないぞ?」
「もしかしたら
「あ、そうかも。去年お姉ちゃんにさんざん文句言ったのが効いたのかな?」
瑠華とは年の離れた蕾華の姉で怜や陸翔とも付き合いがあり、領峰学園の数学教師をやっている。
ちなみに昨年、蕾華だけが別クラスになった時は家でさんざん蕾華に文句を言われたと愚痴を聞かされた。
怜としてみればそんなもん知らんわ、という感じで聞き流していたのだが。
「てかそろそろ始業式の時間じゃないか?」
ふと時計を見ると、そろそろ体育館へと移動した方が良い時間になっている。
本日はクラスに荷物を置いた後、そのまま体育館へ移動して始業式という予定だ。
怜たち三人が移動を開始しようとすると、それをきっかけとして他の皆も席を立ち上がって移動を始める。
「あ、そうそう。お姉ちゃんで思い出したんだけど、大ニュース、大ニュース!」
思い出したように蕾華が体育館へと向かって歩いている最中に両手を打ち鳴らし、興奮した様子で怜と陸翔の前に回り込んでくる。
「大ニュース?」
「なんだそれ?」
「聞きたい? 聞きたい?」
二人の反応に蕾華はテンション高く目を輝かせている。
「おう、聞かせてくれよ」
(ていうか、むしろ蕾華が言いたいって感じだよな、これ)
そんな怜の心の呟きは聞こえずに陸翔の言葉に満足したように頷く蕾華。
「しょうがないなー、りっくんがそこまで言うなら教えてあげるね。お姉ちゃんがね、このクラスに転入生が来るって言ってたよ!」
もういい時間になっていたが、蕾華の後ろの席の生徒は未だにクラスに現れていなかった。
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