第一章前編 世話焼き男子とクール女子

第2話 引っ越してきたクールさん

 春は何の季節か? という問いには人それぞれの答えがあるだろう。

 例えば別れの季節。

 卒業を機に遠くへ行ってしまう友人との別れ。

 そんな答えもあるかもしれない。

 また逆に出会いの季節という人もいるだろう。

 環境が変わることにより新たな人々と出会う機会が一番多いのが春という季節だ。

 春休み終了まで残り三日。

 数日後に高校二年生へと進級する男子学生であり、アパートで一人暮らしをする光瀬怜もその例に漏れることはない。


「あっ!」


 親友との待ち合わせ場所へと向かう為にアパートのエントランスを出た所で少し強めの風が吹いた。

 直後、怜の耳に少女の声が届く。

 声の方向を見ると少し離れた場所に引っ越し屋のトラックが停まっており、その横には見た目は怜と同年代の少女が立っていた。

 白い肌に長い黒髪、そして整った顔立ち、女性にしては少しばかり長身といえる身長、遠目からでも目を引く容姿をしている。

 服装や体格から察するにおそらく引っ越しのアルバイト、などということはない。

 普通に考えれば彼女は引越しの依頼主である家族の一員、ということだろう。

 そんなことを考えるよりも早く、怜の目は別の物を捉えていた。

 少女の片手に持たれたスケッチブック。

 そして風に乗って宙を舞い、こちらの方へと近づいてくる一枚の紙。

 その紙が頭上を通過しようとした瞬間、怜は反射的に飛び上がって手を伸ばす。

 怜は運動部に所属しているわけではないがスポーツ自体は好きであり常日頃から鍛えている為、そこらの運動部員よりも運動神経は良い。

 かなりの高さに舞い上がったそれを、何とか指で掴んで着地する。


「ふぅ」


 一息吐いて正面を見ると少女が驚いたような顔をしてこちらを見ていた。

 掴んだ物体を確認すると、それはやはりスケッチブックから剥がれた紙である。

 そしてそこに描かれていた絵を見て怜は息を呑んだ。

 描かれていたのは猫。

 写実画とデフォルメされたイラストの二つが描かれている。

 絵心に恵まれなかった怜から見ても、正直どちらもかなり上手だ。


「あっ……!」


 再び少女が声を上げる。


「っと……」


 おそらくこの絵は目の前の少女の物だろう。

 そう思って怜は少女の下へと歩いて行く。


「あなたの物ですか?」


 絵を差し出しながらそう尋ねると、少女はコクリと小さく頷いた。


「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」


 少女は絵を受け取りながらどうにか聞き取れる程度の声量でそうお礼を言った後、顔を下に向けてしまう。

 怜としてもそれ以上会話を続ける理由もなかったので『それでは』と一言だけ言って友人との待ち合わせ場所へと向かって行った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 これが将来人生を共にする二人、光瀬怜とその少女、渡良瀬桜彩とのファーストコンタクト。

 出会いの季節と評される春に訪れた、人生最大級の出会いだった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ピンポーン


 その日の十九時、怜が住む部屋にチャイムの音が鳴り響く。

 キッチンでその音を聞いた怜は怪訝そうに顔をしかめてコンロの火を消した。

 コンロの上には少し深めの鍋があり、中には一口大に切られた鶏肉と大根、ジャガイモやニンジンが入っている。

 そろそろ煮立ってきたので火を弱火へと変更したのだが、すぐに消すことになってしまった。


(誰かな?)


 ぱっと思いつくのは親友の二人だが、こんな時間に連絡もなくいきなり尋ねて来るようなことはまずしない。

 ポケットのスマホを確認しても、そこにはメッセージなど全く入っていなかった。


(まあ出ればわかるか)


 火が消えたのを再度確認してキッチンから出て玄関へと向かう。

 特に出かけるわけでもないのでエプロンは付けたままでも構わないだろう。


「今出ますよー」


 いつもであれば念の為にインターホンで来訪者を確認するのだが、今回に限ってはなぜか面倒に思ったので、扉越しにそう答えてからサンダルを履いて鍵を開ける。

 するとそこに昼間に出会った少女が立っていた。

 彼女の方でも怜に気が付いて一瞬驚いたような表情をしたが、また無表情に戻って怜に向かって頭を下げる。


「夜分に恐れ入ります。昼間はどうもありがとうございました。それと私は本日隣に引っ越してきたのですが」


 そういえば一週間ほど前に元々住んでいた住人が転勤するとか何とかで引っ越して行ったのを思い出した。


「あの、すみません。ご両親はいらっしゃいますか?」


 このアパートの間取りは2LDKであり、リビングもそこそこ広い。

 間違っても高校生が一人で住むような物件ではないので、怜が両親と一緒に住んでいると彼女が思ったのは無理もないだろう。

 現に先日引っ越して行った元お隣さんは四人家族で住んでいたと思う。

 そこまで交流していなかった為にちゃんとしたことは分からないが。


「両親はいません」


「あ……そうですか。引っ越しのご挨拶をと思ったのですが、また出直すことにします」


 怜の言葉を両親は出かけている、と解釈したのか彼女が頭を下げて踵を返そうとする。

 それで怜は自分の言葉が足りなかったことに気が付いた。

 確かにその説明では誤解されてもおかしくはないだろう。


「ああいや、出かけているというわけではなく、ここは自分が一人で暮らしていますから」


「え?」


 その言葉に彼女の顔が上がり怜と目が合う。

 しかしそれも一瞬のこと、少女が再び少し頭を下げて言葉を続ける。


「失礼しました。私は渡良瀬と言います。よろしくお願いします」


 そう言って手に持った袋を怜に差し出してくる。

 それを受け取りながら、怜は疑問に思ったことを聞いてみる。


「引っ越して来たって……あなたの方こそ両親は?」


 普通であれば隣家への挨拶というのは大人が行うべきだろう。

 その疑問に少女は下を向いたまま


「いえ、私も一人で暮らすことになりますので」


 そう俯きながら暗い声と表情で答えた。

 その少女の答えに怜の方も疑問が湧く。

 自分が一人暮らしをしていてなんだが、このアパートは基本的には家族用の物件だ。

 家賃もこの辺りではそこそこするし、間違っても学生が一人暮らしをするような物件ではない。

 さらにいえば隣は最上階の角部屋なので、家賃の方もおそらく今怜の住んでいる物件よりも高くつくだろう。

 だがまあ自身も一人暮らししていることもあり、まだ知り合ったばかりの他人の事情を深く聞くようなことをするべきではない。

 よって気持ちを切り替えて笑顔を作って挨拶を返す。


「こちらこそ失礼しました。自分は光瀬と言います。それではこれからよろしくお願いします」


 といっても多分よろしくすることはないだろうな、と思う。

 あくまでもこれは初対面の挨拶における定型文だ。


「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 そう言って彼女は再度頭を下げて自分の部屋へと戻って行った。

 それを確認して怜も家の扉を閉める。

 渡された紙袋の中身を確認してみると、中には引っ越しの挨拶の時に持っていく手土産として上位にランクインするであろうタオルが入っていた。

 ひとまずそれをリビングのテーブルの上に置いて、キッチンへと戻りコンロの火を点け直す。


(まさか隣も一人暮らしとはなあ。それも見た目からしたら同年代か)


 怜が高校一年生から一人暮らししているのは両親が仕事の都合で遠方へ引っ越したことに加え、姉も大学へ通う為に昨年から家を出たからだ。

 彼女の方もそんな事情かもしれないが、それでもこのような家族向けの物件に同年代が一人で引っ越してくるとは思ってもいなかった。

 人のことは言えないが。


(まあ普通に暮らしていれば関わり合いになることはないだろうし。ただ……何がというわけではないけど気になるな)


 確かに渡良瀬と名乗った少女は目を引く美人ではあったが、だからといって怜はそれを理由にお近づきになりたいと思うような人間ではない。

 ただ、話している最中の彼女の表情が何故か気になってしまう。

 そんなことを考えながら鍋の中に落し蓋をして、付け合わせのサラダの準備に取り掛かった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



(お隣の方も一人暮らしなんだ)


 自室へと戻った彼女はたった今出会った男性、怜について考える。

 下の部屋はまだ住人がいないと聞いているため、彼女が挨拶したのは怜の家だけだ。


(おそらく大学生かな? あまりうるさくなければいいけど。そういえばエプロンしてたな。ってことは料理が出来るのかな? 私はまだほとんど未経験だから羨ましいな)


 初めての一人暮らしであり、料理、掃除、洗濯と彼女にとっては全てが未知の世界だ。

 そんなことを考えながら、彼女は近所のスーパーで買ってきた弁当をテーブルに置く。


「まあ、私があの人と関わることなんてないか。それより明日からの生活はどうしよう」


 料理をはじめとして、家事などほとんどしたことはない。

 これからの生活をどうしていこうか。

 そんなことを考えながら、少女は引っ越し初日の夕食を食べ始めた。

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