プロローグ

第1話 プロローグ ~少し先の幸せな未来~

「それでは失礼します」


 四月も終わりに近づいてきたある日の放課後、ホームルームが終わると光瀬怜みつせれいの隣の席の女生徒、渡良瀬桜彩わたらせさやが無表情のままそれだけ言って席を立つ。

 現在高校二年生であり若干大人びた雰囲気をかもし出している彼女は教室ではあまり表情を出さずにクールな感じで本を読んだりスマホを触ったり、比較的仲の良い同性の友人と静かに会話をしたりしている。

 長い髪、白い肌、整った顔立ちに加えて同年代の女子としては比較的長身で、まだ未成年としてのあどけなさが残るものの飛び切りの美人。

 クール系美少女として有名な桜彩に多くの男子学生は若干、いやかなりの近寄りがたさという物を感じてしまう。

 そんな桜彩は一部の男子学生により『クールさん』や『クーさん』、女子からは『クーちゃん』等のあだ名が付けられていたりもする。


「ああ、またな」


 怜がそう答えると、桜彩は会釈だけして教室の出口へと歩き出す。


「じゃな、クーさん」


「じゃーね、渡良瀬さん」


 怜の前の席に座っていた二人の親友、御門陸翔みかどりくと竜崎蕾華りゅうざきらいかも桜彩へと声を掛けるとそちらにも会釈だけして桜彩は立ち去っていく。

 彼女の後姿が見えなくなると、陸翔が苦笑しながら怜に話しかける。


「いやー、クーさんは今日も相変わらずのクールっぷりだな」


「いつも通りなら別に悪くないんじゃないか?」


「まあな」


「でもれーくん陸翔りっくんは男子の中だとまだマシな方なんだけどね」


 女子の中でも比較的桜彩と話すことの多い蕾華がフォローのようにそう呟く。

 実際に蕾華の言う通り、桜彩は男子とは必要最低限の会話しかせず、その話す時も完全に塩対応だ。

 怜と陸翔に対しても塩対応ではあるのだが、それでも比較的まだ温かみのある方だ。


「それで、怜はこの後暇か? 暇なら久しぶりに遊ばねえか?」


「うんうん。最近れーくんと遊んでないし」


「あ……悪い、ちょっとな……」


 目を輝かせる二人に怜はごめん、と片手を上げて謝ると、二人は少し残念そうな表情を浮かべる。


「うーん、残念。でもれーくん二年になってから少し付き合い悪くなった? あ、別にそれはそれで文句あるわけじゃないんだけどさ」


「だよな。去年は基本的に誘ったら二つ返事でイエスって答えてたのに」


「悪いな二人共。ちょっと当日いきなりってのは厳しくなった。まあ前日までに言ってくれれば出来るだけ付き合うよ」


 昨年まではいきなり誘われても自由気ままな一人暮らしの為に基本的には付き合っていたのだが、少し前からそうもいかない理由が出来ている。


「そっか。それじゃあまた今度誘うわ」


「おう、楽しみにしてる」


「でもれーくん、理由は教えてくれないんだよね。やっぱ彼女でも出来たんじゃない?」


「別にからかわないから紹介しろって。あ、それとも彼女の方がそういうの恥ずかしがるタイプか?」


 そんな親友二人に心の中で少し申し訳なく思いながら、右手をズボンのポケットへと伸ばすと指先が目当ての物へと触れる。

 触れたのは怜が住んでいるアパートの鍵。

 そしてその鍵に取り付けているキーホルダーだ。

 これがある意味で付き合いの悪くなった理由でもある。


「だから彼女なんて出来てないって。それじゃあまたな」


「おう。また明日」


「じゃね、れーくん」


 それだけ言って片手を上げて教室を出て、目的の場所へと足早に向かった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「えっと、こうで良いの、怜?」


 とあるアパートの一室、怜の住んでいる部屋の中で桜彩が心配そうに聞いてくる。

 少し前までであれば陸翔と蕾華の二人を除いて、同級生は絶対に中に入れなかった怜の部屋。

 その部屋のキッチンで、少し前に知り合ったばかりの桜彩が片手にピーラー、もう片方の手に防刃手袋を着用したままゴボウを持って不安げな顔で心配そうに見つめてくる。

 その問いに対してそれで合ってるよと怜が頷き返す。

 少し前までの桜彩はこれまでの人生で料理などほとんどしたことがない、ましてや包丁など数える程度にしか持ったことがなかった。

 もし桜彩が和服でも着ていたらどこに出しても恥ずかしくない大和撫子に見えるだろう、見た目だけは。

 もっとも彼女が今着ているのは和服などではなく動きやすい恰好の普段着であり、その上からまだ新しい紫色の生地にワンポイントで猫がプリントされたエプロンを着用している。

 これでもう少し年齢が大人であれば立派な若奥様に見えるだろう、見た目だけは。

 学校では常にクールで、『クールさん』や『クーさん』、『クーちゃん』等とあだ名が付けられていたりする桜彩。

 だがそれはあくまでも彼女の外殻であり、中身はとても感情が豊かだということを怜は知っている。

 現に今まさに怜の前ではクーさんだとか言われている面影が全く感じられないほどコロコロと表情を変えている。


 家族でも親戚でもない、法律上はただの他人の二人。

 共通点と言えば同じ学校の同じクラスに通うクラスメイトであり、そして少し前から同じアパートの隣人というだけの関係。

 ただそれだけの関係だったのだが、出会ってから数週間で二人の関係は大きく変わった。

 それこそ登校前と放課後はほとんど一緒に過ごすほどに。


「それで良いぞ。そのままピーラーを縦に走らせて……うん、大丈夫大丈夫」


「本当? 怜、本当にこれで大丈夫?」


「ああ、上手上手。ちゃんと出来てる」


「良かったあー。それじゃあ次は……」


 怜の言葉に桜彩が緊張していた顔をほころばせて笑顔を見せる。

 初対面の頃には考えられなかった、とても魅力的な笑顔。

 不意打ち気味のその表情に怜の心はドキッとしたが、内心の動揺を悟られないように表情を引き締める。


「それじゃあ次は……」


 怜の指示の下、桜彩がキッチンへと向き直り次の作業に取り掛かる。

 邪魔にならないように結んである綺麗な髪の横から見えるうなじに怜は再度ドキッとさせられる。

 今は桜彩がこちらを見ていないので助かった。

 ふとした仕草で照れされられる為、赤くなった顔を隠し通せる自信はない。


「怜……?」


「っとごめん。次は……」


 次の指示が来ないことに疑問を抱いた桜彩からの声で我に返り、怜は再び料理の方へと意識を向ける。 

 隣人と二人でスーパーに行き、売られている品物の値段や冷蔵庫の余りなどを総合的に考えて献立を決めて買い物をして、そのまま二人で夕食を作る。

 一部の例外を除き、これまであまり他人と深く関わってこなかった二人にとって、少し前までまるで考えられなかった生活。

 それが今や当たり前のように馴染んでいる。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あっ!」


 怜の指示の下、フライパンの中身を菜箸で転がしながら焼いていた桜彩が、慌てたような声を上げる。

 そちらを見ると、桜彩が着用しているエプロンを見ながら慌てていた。


「どうかしたのか?」


「たれがエプロンにハネちゃった」


 ワンポイントで猫のプリントが入ったエプロンを悲しそうに見つめる。


「ごめんね。このエプロン、せっかく怜がくれたのに」


「構わないぞ。前に言っただろ? エプロンは汚さないように注意して使うんじゃなく、むしろどんどん汚していくべきだって」


「それでも何か嫌なの!」


 ぷくっと頬を膨らませてむくれる桜彩。

 そんな表情もとても可愛らしく、再び怜の顔が緩む。


「あーっ、怜、笑ったーっ!」


 それがお気に召さなかったのか、桜彩の顔がさらに膨れる。

 そのまま数秒間無言で向き合って


「ぷっ……」


「あははは」


 その表情が崩れて二人の間に笑いが起きた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「良し、これで完成だね!」


 怜の手元のフライパンを見て桜彩が嬉しそうな声を上げる。

 その言葉と表情に怜も思わず笑みを浮かべる。

 自分の作った料理をこうも楽しみにしてくれると非常に作り甲斐がある。


「それじゃあ桜彩、お皿の用意をお願い」


「もう出来てるよ。ほら!」


 そう言いながら端にキャベツの千切りが置かれたお皿を持って自慢げに怜の隣に置いてくれる。

 完璧なタイミングで置かれたそれに、怜は出来立ての肉巻きを乗せていく。


「それじゃあ後はご飯と味噌汁だな」


「それも準備万端!」


 えへんと自慢げに胸を張る桜彩の視線を追ってみると、既にテーブルの上には根菜の入った味噌汁が置かれ、ご飯茶碗と箸もセットで用意されている。

 怜がメインの肉巻きとキャベツの乗った皿をテーブルへと運んでいる間に、桜彩はご飯と味噌汁をよそっていく。

 テーブルの上の準備が出来たことを確認して二人共椅子に座り手を合わせる。


「いただきます」


「いただきます」


 そう言って二人は出来たばかりの料理へと手を伸ばしていく。

 そして一口口に含んで


「うーん、やっぱり怜の味付けは最高だね!」


 そう言いながら嬉しそうに肉巻きを頬張る桜彩。

 怜がこだわった自家製のたれを使った味付けだ。

 肉だけではなく横に添えられたキャベツにもよく合い、少し行儀が悪いがご飯に掛けても美味しく食べられる。


「あれ? 怜、どうしたの?」


「なんでもないよ。桜彩が美味しそうに食べてくれるのを見てると作った甲斐があるなって」


「うん。本当に怜の料理は何でも美味しいよ」


 そう言いながら再び肉巻きへと手を伸ばす。

 一方怜の方も味噌汁に箸をつける。


「この味噌汁も美味しいぞ。ゴボウもちゃんと火が通ってるし」


「ありがと。と言っても味付けは全部怜がやってくれてるんだけど」


「まあそれはな。でも桜彩も充分上達したと思うぞ。最初は包丁どころかピーラーも上手く使えなかったんだから」


 少し笑いながらそう言うと、桜彩も顔を赤らめながら恥ずかしそうにする。


「もう、それは忘れてよ……あ、やっぱり今のなし! 例え失敗してもそれは私と怜の大切な思い出なんだから忘れられるのは嫌だな」


 その言葉に今日何度目か分からないほどに心を揺さぶられた怜が照れ隠しするように肉巻きへと箸をつける。


「あ、本当に美味しい。良かった、ちゃんと出来て」


「ふふっ、私は嘘は言わないよ」


 そんな風に他愛もない話をしながら二人は楽しく食事を続けていく。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 食事を終えた後は、いつも通りに二人で怜の部屋のリビングでゆっくりと過ごす。

 学校の課題に取り組んだりパソコンで動画を観たりしていると、すぐに時間が過ぎてしまう。


「あ、もうこんな時間」


「だな」


「もう……。怜と一緒にいると、時間が経つのが早すぎるよ」


「ん……。俺も桜彩と一緒にいるとそう感じる」


「ふふっ、同じこと思ってくれてたんだね」


「まあな」


 二人共少し顔を赤くして照れあってしまう。

 さすがに桜彩は夜は自分の部屋へと戻らなければならないので玄関まで見送る。


「それじゃあね、怜。また明日」


「ああ、また明日」


 そう言いながら自分のポケットから鍵を取り出す桜彩。

 怜の鍵とそっくりの鍵に、怜とお揃いの猫のキーホルダーが付いている。

 その鍵を怜の隣の部屋のドアへと差し込む。


「お休み、怜」


「お休み、桜彩」


 笑いながらそう言った桜彩が怜の隣の部屋へと入っていく。

 それを確認して怜も玄関の扉を閉めた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 これが、本来であればありえなかった二人の生活。

 いくつもの偶然が重なりあって生まれた日常。

 二人がこれから手にするであろうかけがえのない新しい幸せ。

 その第一歩となる甘い半同棲生活の風景であった。

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