あちらのお客様からです

篠塚しおん

あちらのお客様からです

「あちらのお客様からです」


 このイベントが発生したのが、雰囲気漂うお洒落な夜のバーだったら、多少は心躍ったかもしれない。いま、実乃里みのりの目の前に置かれているのは、鮮やかな青でカリブ海を連想させるガルフストリームでも、チョコレートの香りで心をくすぐるアレキサンダーでもない。


 ほんのり魚介の香りがする、卵と薄い肉と少量の野菜が乗った逸品。そう、しょうゆラーメンだ。頼んでもいないどころか、着席したばかりで何を注文しようかメニュー表を眺めていた実乃里の前に、それが運ばれてきた。


「またですか……」


 実は、このイベントは四回目。実乃里はこの店のラーメンが好物で懇意にしているのだが、ここのところランチで訪れるたびに、頼んでもいないラーメンが運ばれてくる。もちろん、断った。だが、実乃里にラーメンをよこした客は、届く頃合いを見計らって店を出てしまう。だから、未だに誰が「あちらのお客様」なのか実乃里は知らない。


「お代はいただいてるんで、召し上がりません? 廃棄になっちゃうんで……」


 そう言われて、もったいない精神が出てきてしまい、結局毎回受け取ってしまっている。食べ物に罪はない、と自分に言い聞かせて。しかし、タダ飯食らって出ていくのも、決まりが悪い。そうかといって餃子やライスはちょっと重い。そこで、デザートの柚子アイスを別途頼んで、僅かながらも売上に貢献させてもらっている。


 今までの人生を振り返っても恋愛など縁がなかった実乃里だが、いくら何でもラーメン屋でナンパは無いだろうと嘆息する。ラーメンでしょっぱくなった口の中が、アイスと合わさってヒンヤリ甘じょっぱくなる。その味が嫌いじゃないと感じる自分の人生が安っぽく感じて、もう一度嘆息する。


 嫌なら行かなければ良いだけなのだが、それでは負けを認めたようで何だか悔しい。そこで、ランチではなく仕事終わりに入店してみることにした。件の客も一日中店に居座っているわけでもないだろうし、実乃里がランチで訪れるところを狙っているのなら、時間をずらせばバッティングすることもないはず。


 この日は思ったより残業が長引き、二十三時を回ってしまった。帰宅して自炊する気にもなれないし、頑張った自分へのご褒美にと、あのラーメン屋に入った。カウンターにもテーブルにも、他に客はおらず、男性店員が一人で洗い物をしていた。閉店間際に駆け込む迷惑客になってしまったのを心の中で謝罪しつつ、メニューを眺める。さっさと食べて帰ろう。


 一通りメニューを眺めた結果。


「しょうゆラーメンお願いします」


 結局、「あちらのお客様」がよこすメニューを注文してしまった。他のラーメンも美味しそうなのだが、最終的には同じものをリピートしてしまうのだ。イベント発生時は奢られている気分になって、居心地悪さを抱えながら食べていたが、今回はちゃんと自腹で払うのだから、大手を振って味わえるというもの。


 スマホをいじりながら待っていると、店員ができたてのラーメンを運んできてくれた。


「しょうゆラーメン、お待ちどお様でした」

「ありがとうございます」


 まずスープを味わい、それから麺をすする。やはり、自分の金で食った方がうまい。自然と笑みがこぼれ、あっという間に最後の卵だ。名残惜しみながら、ラストの一口を味わう。


 ――ああ、美味しかった。


 まったりしたい気分だが、閉店時間が迫っている。実乃里は財布を出して、席を立った。


「あ、お客さん、ちょっと待って!」


 店員に呼び止められた。なんだろう、と 待っていると。


「これ……俺からです」


 カウンターに柚子アイスが置かれた。意味が分からず戸惑う実乃里に、彼が捲し立てる。


「いつもラーメン出してたの俺です! お客さんが初めて来た時一目惚れして。気色悪いことしてすんません! でも、どうにかして気持ちを伝えたかったんです」


 なんと、「あちらのお客様」は、運んできた彼本人だったのだ。実乃里は彼の仕事ぶりを思い返す。来客に一番最初に気づいて、一番大きな挨拶をしてくれて、たまに皿を割っている。実直で不器用という印象だった。行動だけを見れば確かに気色悪いが、彼自身、自分でそう自覚するくらい不器用なのだろう。


 実乃里は何だか可笑しくなって、席に座り直し、「いただきます」と言ってアイスを頬張る。彼は、顔を赤くして、黙って見ている。ラーメンとアイスの分の代金を差し出し、面食らった彼を制して受け取らせる。


「また来ますね」


 実乃里は最終電車に飛び乗った。塩味と甘みの両方を感じながら。

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あちらのお客様からです 篠塚しおん @noveluser_shion

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