14 思い出は彼方に





「バーカ! 言ったでしょ! もうすぐ雨降るって! もう!」



 マアルーンは怒鳴りながら地団駄を踏んだ。びしょ濡れの服から滴り落ちた雨水が足踏みで、ばしゃばしゃ跳ねる。

 十一歳の誕生日のお祝いにと仕立てられた長靴ブーツが、台無しだ。


 あと数か月もすれば、これもまた新調しなくてはいけないだろう。

 けれど祖父のとそっくり同じに仕立ててもらったのは、このブーツが初めてだった。だからマアルーンは、今はまだ雨に濡らしたくないくらいに、お気に入りだったのだ。


「もーーーう! 最悪!」


 マアルーンは靴を脱ぎ、裸足になると両手のブーツをひっくり返した。中の水が石の床にぶちまけられ、水たまりを大きくする。ブーツを振って水気を出来るだけ切ったら、お次は上着を脱いでしぼった。


 さらに水たまりが大きくなる。マアルーンが犬みたいに頭を振ると、お月様色の髪からしずくが飛んだ。

 それらは全部、ほこらの奥の石に腰かけた幼なじみにかかる。上着のフードでいくらか被害を免れていた銀の髪に、雨水がはじけた。



「どうして付いて来たのよ、あぶないって言ったのに。おかげで近道しても町まで帰り付けなかったんだけど。あんたが遅いから!」



 文句を言いつつもマアルーンは、もう一度履き直したブーツで蹴るように、雨水を奥へと行かせまいと、ほこらの床からかき出した。

 お気に入りの割にブーツの扱いが乱暴なマアルーンは、土砂降りの外を見ながら話す。



「こういうのは通り雨って、じいちゃんが言ってた。しばらく待ってたらやむでしょ。でも……もったいないなあ、この時間!」



 マアルーンはうつむく幼なじみへ目もくれず、雨の外を見つめる。



「よし、ここで訓練だ。足踏み百回、いや千回やろうっと」



 もう一回、ブーツを脱ぎ、濡れた床で足踏みを始める。その場で小さく回りながら走り、雨で冷えた体が暖まって来たら、足踏みに屈伸も取り入れた。

 その身のこなしはどことなく、王都の草原に暮らすウサミミカンガルーが、けんかの前にやる威嚇と準備運動を、幼なじみに思い起こさせる。



「くしゅっ」



 ほこらの奥から、くしゃみが聞こえ、マアルーンは足を止めた。石に腰かけ、ひざを抱えて縮こまっている、ひ弱な幼なじみへ忠告する。



「ほら。風邪ひきかけてるじゃん。あたしの言ってること聞かないから、そうなるんだよ」



 話しながらマアルーンは、別の石の上に乗っけた大きな鞄を開けた。何かが色々と詰められた、おもり代わりの鞄から、中くらいの緑の瓶と大小のタオルを取り出す。


「ほい、ほい、ほい」


 それらを軽快に幼なじみに渡すと、マアルーンはもう一本、鞄から透明な瓶を取り出した。



「ほら。さっさとそれ飲んでよ。薬草水」



「うううぅぅぅ」と何かの獣のようなうめき声をあげながら、おぼっちゃまは、緑色の瓶のふたを回して開けた。

 病弱な箱入り息子でも、これくらいは自分で出来るようになったのだが、瓶の中身は積極的にふたを開けたいものではない。


 赤ん坊のころからお世話になっている薬草水だ。もう味に慣れていいはずだが、薬というだけで好き嫌いが発動する。

 苦くもなく甘くもなく、少々すっぱくさわやかな味。別に苦に思うほどのことではない味のはずだが、宰相家の箱入り息子はこれが苦手だった。

 草をちぎったり、野原を駆けた時のような、青々とした匂いのせいかもしれない。慣れないままの薬をそれでも嫌々、三口みくちほど飲む。



「はい、そこまで。それ貸して」



 マアルーンは透明な瓶を開けつつ、渋々もうひとくち薬を飲もうとしていた幼なじみを止めた。ぱしゅっと軽やかな音を立て、マアルーンの持つ瓶のふたが開く。



「この間、発見したんだー。混ぜると、おいしいよ」



 首をかしげる幼なじみから薬草水の瓶を受け取り、そこへ開けたばかりの炭酸水をそそぐ。


「はい、どうぞ」


 マアルーンが差し出した緑の瓶を首をひねったまま受け取り、世話が焼けるレイゼンスターの若君は恐る恐る、薬草炭酸水を口にした。



「……うん。なんか、大丈夫かも」



「だいじょうぶかも、ってなによ。おいしくなってるでしょ? 好き嫌いが多すぎるのよ、あんた。だから長く走れないんだよ!」



「うーーぐうぅ」



 口げんかにも強い幼なじみに言い返せない。

 偏食が直らないうちは体が丈夫にはなりませんよと、医者や治癒術士に、さんざん忠告されてきた。その手の注意をいっさい受けたことのないマアルーンの指摘へ言い返す言葉がないのだ。



 剣聖には体力が必要だ。



 祖父もその親友も、そしてその孫も同じことを言う。


 言われっぱなしも、くやしかった。体力づくりだと、屋敷の庭での早足の散歩から始め、それに慣れたと思ったから場所を外へと移した。

 箱入りから脱却したいおぼっちゃまはこの度、マアルーンの特訓に無理やり付いて来てみたのだ。



 それが、この結果だ。散々な目にあった。



「あんたさ、逃げ足だけも身に付けといたほうが絶対いいよ。あんなにかんたんにさらわれてたら、追いかけるあたしが面倒なんだから」



 マアルーンの言葉にむっとして、レイゼンスターの若君は口を尖らせる。



 さらわれるところだったのは、マアルーン・ペペッシュなのだ。



 彼女がひょいと豪脚で身をかわしたから、その後ろへいたこちらが袋で捕まえられてしまっただけで、身代わりになってやったのを、とやかく言われる筋合いはない。

 代わりに袋に詰められて持ち上げられ、どこかへ運ばれている、どうしよう、なんとかここから出ないとと思ってあせっていたら、いきなり吹っ飛ばされていた。



 放り出された袋から這い出した若君に分かったのは、誘拐犯ごと被害者の自分も、豪脚で蹴り飛ばされていたということだ。



 盗賊らしき誘拐犯は蹴っ飛ばされた勢いで、大木の枝に引っかかって気絶していた。

 あの高さからはすぐには下りれないだろうが、他にも仲間がいたら大変だから早く誰か呼んできた方がいいとマアルーンが言い出し、町への近道を二人で走っている途中で、土砂降りの雨に遭遇したのだ。



 それを全部、こっちのせいにされている。



 黙って、じっとしていてくれれば、こんな危ないことに巻き込まれもしないはずなのに。

 黙っててくれれば、ほんとに、お姫さまみたいなのに。



 もう一枚出したタオルで頭を拭いているお姫さまみたいな女の子は、目付きを悪くして、じっとこちらを見つめている幼なじみへ振り返ると、ぴしゃりと言い付けた。



「さっさと全部、飲めよ、それ」



 がらが悪い。


 この柄悪のお姫さまに逆らうとどうなるかは、幼なじみが一番よく知っていた。

 彼は嫌々顔を上げ、薬草炭酸水の瓶を両手で持って、ちびちびと飲み始める。頭の後ろで結んだ髪から、雨のしずくが落ちた。



 伸ばした銀の髪が広がると山岳地帯の峰々のような美しさだと、この頃、レイゼンスターの若君は銀嶺ぎんれいの君などと呼ばれている。



 その人気は外に限らず、お屋敷の侍女たちは誰が、おぼっちゃまの銀の髪を整えるか、盛装の時にどう結うか、それが最も似合っていたのはと、密かに技術を競い合っていた。

 後ろで彼女たちが、ごちゃごちゃともめている声は、マアルーンよりも早く走れる魔法や技はないかと一心不乱に本を読み漁っている当のおぼっちゃまの耳には、まるで聞こえてもいないのだが。


 侍女たちが手を尽くして飾り立てた銀嶺の君は、子猫みたいで可愛いと評判の王子たちと城や王都の行事に連れ立って出かけると、いつもひと騒ぎを起こしていた。

 彼らの姿を一目見ようと人が詰めかけ、催し物を上回る盛り上げ方をしてしまうのだ。



 自分以上に手のかかる幼い王子たちに振り回され、宴や音楽会どころではない銀嶺の君はまだ気が付いていないが、次期宰相のお近付きにと、親はもちろん小さな令嬢たちからも彼は注目の的だった。

 王太子が投げた、ひとくち大のタルトを王子が口で捕まえる遊びを止めようとしたあげく、顔でチョコクリームを受けるという姿に、可愛いの声が連呼される始末である。



「可愛い!」は、華やかな催しなんか、くそくらえと、特訓に明け暮れるマアルーン・ペペッシュにお決まりの称賛でもある。

 だが、お姫さまな見た目の幼なじみの呼ばれ方には、またひとつ新たなものが加わっていた。



 豪脚の英雄。



 この国には、英雄と呼ばれる者がいる。

 それは三人。



 そこに、ひよっこの剣聖の名はなかった。








 

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