第36話

 若手女優『稲里みほり』について。

 七見は彼女のことを知っている。

 だが、彼女が七見について覚えているかどうかは、わからない。

 年齢は同じ十六歳で、七見が七歳の頃、子役時代に共演したことがある。共演といっても、とある映画の、小学校の授業のシーンで、お互い、その他大勢の子どもたちのエキストラのひとりだった。互いにセリフはなく、役者というより、画面的には、大道具としてそこに配置されていたに近しい。

 画面の中で、机は隣同士だった。七見はすでにエキストラしては、何度目かの映画出演だった。稲里みほりは、その日が撮影カメラで撮られるという経験が、はじめてだった。

 七見の隣の席で、稲里は堂々としていた。

 何度目かの映画撮影経験だった。だが、ひどく緊張していた。セリフもな いし、実際、画面に映るかもあやしい。それでも、落ち着くことができなかった。逃げ出したくてたまらなかった。

 教室にいた、他のエキストラの子どもたちは、完璧な仕上りだった。七見だけが、あきらかに不安定な状態だった。

 演じるが恐い。何度やっても、慣れることがなかった。しかし、演じなければ、母親の期待に応えられない。

 母親が七見を子役の世界へ入れた。彼が自我と、それに紐づく意志を持つ前の話だった。

 出産を機に務めていた会社を退職し、家で育児に専念することになった母親は、その時期に社会とのつながりを失った感覚に見舞われたという。そして、幼かった七見を子役として、活動させ、所属する事務所、養成所、撮影現場への行動をともにすることで、母は社会との接点を再取得しようとしたのだともいった。

 幼い七見は、騒いだりせず、言われたことに抗わず、物覚えもよく、大人の指示に従う子どもだった。その性質が重宝されるというほどではないが、需要はあった。

 しかし、七見が五歳の頃、妹が生まれた。母親は妹の育児に専念することになる。母親自ら七見を連れて現場へ行くとは稀になり、七見は事務所のスタッフに、他の大勢の子どもたちと一緒に現場へ行くことが増えた。そうなると、おのずと、単体での需要は減り、その他大勢の仕事が増えはじめた。

 六歳頃になると、自我が姿を現す。そして、母親が不在の撮影現場で、ある日に気づく。そういえば、じぶんから、ここにいたいと思ったことがない。

 そのときから、現場へ足を運ぶことが、ひどく不安になった。この自ら、やりたいと思っていないことが、うまく出来るはずがない。カメラが、そんな自分の正体をバラしてしまうのではないかと考えるようになった。

 大きな役が与えられることはなかった。セリフがない役ばかりだった。ただ、そんな 役目さえ、うまく出来る気がしなくなる。

 そして、その日の教室での撮影でも同様だった。大きく不安になり、落ち着かない。母に手を握られ、撮影場所へ挑んでいたころにはなかった不安だった。こんな状態の自分がこの物語のなかにいるだけで、すべてを出しなしにしてしまうのではないかという、恐れも感じるようになってくる。

 無論、七見の立場はただのエキストラにしか過ぎない。しかし、七歳の七見には、 まだ、現実感を帯びた想像力をもっていない。

 いますぐに、やめてしまいたかった。でも、意志なくはじまってしまったこの役者というものを、どう意志を持ってやめるのか、そのやめ方がわからなかった。なにより、いまは撮影中だった。カメラが回るのを待っている。じぶんの役は、ただのエキストラで、この映画には、まったく影響を与えない存在の役でしかない。じぶんでなくてもいい。しかし、いますぐこの場から逃げ出せば、スタッフの人たちに迷惑がかかる。誰でもいい役だし、たいして迷惑かからないかもしれないけど、でも、ちいさな迷惑だってかけたくない。現場では、つねに誰にも迷惑がかからないように、役目を果たして来た。

 この役目から、逃れる術を知らない。

 閉じ込められた気分だった。

 服の下に汗をかき、呼吸も狂っていた。心臓の動きもおかしい。

 でも、大丈夫なふりをした。大丈夫を演じた。

 役目を果たし、誰にも迷惑をかけないように、我慢して演じる。

「きみ、死にそうだねえ」

 そのとき、隣に座っていた別の子役の女の子が声をかけてきた。

 それが『稲里みほり』だった。少女も七歳だった。目が大きく、瞳の黒々とした少女で、前髪がつやつやだった。

 飄々とした表情をしていた。

 大丈夫なふりの演技を見抜かれ、七見が驚き見返していると、稲里はつづけた。

「わたしもね、死にそうだよ、いま」

 今度は笑う。前歯が一本、生え代わりかけだった。

 七見はなにひとつうまく反応できない。

「まあ、死なないさ」

 と、稲里はいった。

「だいじょうぶだ」言って、ひとりうなずく。それから七見を見て「だいじょうぶさ」といった。

 七見は小さな声で「だいじょうぶ」と、いった。

 うん、と今度は七見のためにうなずいてみせる。

「さあ、生きて演じようぜ」

 そういって、少女はふたたび笑った。無い歯を、恥じることもなく。

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