第19話

「成増さん、野球好きですか」近藤は運転席からグラウンドを眺めながら問う。「俺は、苦手なんでよねえ。子どものころ、野球を知らないまま草野球に参加させられて、その初打席のとき、空振りして、そしたら、それ、振り逃げだったんですけど、でも、野球のルールを知らないから振って、そのままそこに立ってたら、なにしてんだよ走れよ、って、怒られて、それ以来、苦手です、野球」

 話して近藤はため息を吐き、ハンドルに両手を添え、よりかかった。

「ルールのわからないゲームって、やっぱ、初体験の重要度高いですよね」

「俺はサッカー派だ」成増はわずかにあけた助手席の窓へ双眼鏡を突き刺し、グラウンドを監視している。そして、片手で白髪交じりの頭を、かりかりとかいた。「でも、サッカーの正式なルールなど、勉強したこともない、でもサッカー派だ。ルールが知らなくても楽しめる方だからな、俺は」

「そうっすか」近藤はそういって、ハンドルに乗せた両手に、次は頬を乗せた。それから「あーあ、日曜日って、なんだろう」と、フロントガラスの向こうへ問いかける。

 午前中は曇っていた空はいま、青く澄み渡っていた。

 その空の高い場所を、白い雲が流れてゆく。

「あ、あの雲のカタチ」近藤は空を眺めながら言う。「むかし、読んだ絵本に出て来た、象の鼻からでてきた雲に似てるな」

「精神を現世へ戻せ、近藤」

「なんですか、やりきれない休日出勤を、こうして過去の記憶を材料にした夢想し、乗り切ろうとしてるのに。高等技術なんですよ、現実逃避ってのは」

「ふきげんになっているヒマなどねえ、近藤」

 成増は双眼鏡から目を離し、振り返る。

 ふたりの乗るセダンは、先日、バック走行で電柱を破壊した場所とは、反対側に停車していた。

 周囲は変哲のない住宅街で、時折、犬の散歩をする住民や、自転車が通り過ぎてゆく。

「ターゲットの少年がいま、野球やってんだぞ、野球」

「いや、野球やってるとかそういう問題じゃないですよ、そもそも、例のバトンですよ。出典のわからないものを信じてる時点で、なかなかキビしいと感じませんか、成増さん。しかも、公的資金の端くれを投じてまで、俺らを動かしてまでやることなですか」

 近藤はハンドルから空を眺め続けた。

「だいたい、なんなんですか、そのバトンは、偶然、ターゲットが落とさない限り、手に入らないって、ルールは。どこから来た情報なんですか」

「しかたないだろ、むかしからそう言われてるんだ。むかしから言われることってのは、そこそこ正解なことが多いんだ」

「ピュアさをためされますね」近藤はあきれていた。「大人は本来、持ってない、どこかで無くしたはずのピュアさを、大量にためされる情報ですよ」

「先人たちはな、むりやり奪おうとした、あのバトンをな」

 成増はじっと、助手席の窓から見えるアスファルトを見ていた。

 そこを散歩中の犬が通る。

 犬が、成増を見ていた。

対して、彼も犬を見返しながら言う。

「それにいくら金をつんで買おうしてもだめだった、すべて失敗した。たとえ、相手の同意して、金で譲ったとしても、なぜか結果的に、バトンは手に入らなかった」

「で、なんでしたっけ? しかも、そういう方法で手に入れようとすると、なぜだか、しばらくバトンは世界の表舞台から消息不明になるってんですよね」

「まあな」

「関係なんじゃないですか」とたん、近藤は露骨に表情をゆがめた。「気のせいなんじゃないですか、すべて、あ、ほら、だって、その頃って、いまみたいに情報管理とかずさんだったんでしょ? たぶん、詳しい資料とか残し忘れて、適当な言い伝えで、仕事してなかったぶん、誤魔化そうとしてるだけですって、大人ってそういうことするでしょ、成増さん」

「お前の考えはもっともだ」

 成増があっさりと肯定すると、近藤は拍子抜けしたような顔になった。

「だが、もっともな考えが、この世界の問題の、なにもかも解決するワケじゃないって、お前も大人だから、わかるだろ」

「うわー、めんどくせぇ種類の言いくるめにかかってきたな」

 近藤は相手が先輩ということを忘れ、素で嫌がる。

 しかし、成増は気にしていない。いま目の前に現れたバトンへ、意識を集中し過ぎていた。

「それに、もうひとつ」成増は目を細めていう。「あのバトンを無視できない理由がある」

「はい、どうぞ」

「あのバトンを追いかけるのをやめると、ふしぎと、いろんなことがうまくいかなくなりはじめる」

「なんですか、それ、不景気になるってことですか」

「それも入っている」

「え、入ってるんだ」近藤はやや怯んだ。

「いいか、やはり理由は不明だ。根拠もみつかってねえ。だが、あのバトンを探し、追いかけることをやめると、この世界のあらゆるものが滞る、なぜか、滞る」

 近藤は、どういう気持ちで聞いていいのかわからないまま、聞いていた。

「なあ、近藤、大きくいえば、俺たちは直に国の雇われているようなものだろ」

「なんの話をしてますか、それ」

「まあ、きけ。シンプルな心できけ。いいか、銀河的規模までの拡大して解釈すると、だ。俺たちがあのバトンに絡むのは要するに、公務なわけで、しいては国が、俺たちにあのバトンを追いかけさせ、手に入れようとさせている。けどな、じつは、俺たちの部署は毎年、予算を削られ続けている、消滅させたい部署ナンバーワンの雰囲気を出されている。そして、あのバトンを求める流れる国の姿勢が弱体化するにしたがって、この国もまた、弱―――」

「あ」

 成増が演説に入りかけとき、今度が声を漏らす。

「なんだ、どうした」

「試合が」

「なんだ、終わったのか」

「いえ、フライが」

「フライ」

「守備していた外野の選手の脳天へ直撃しました」

 それから試合は中断となった。そして、ふたりが静観していると、救急車がグラウンドまで入って来た。

 近藤は「うわ、大事になってますね」と述べる。

「野球は格闘技ともいうからな」と、成増がいう。

「どうします」

「チャンスかもしれん。近づいて情報を探ろう」

「うわ、人の不幸をチャンスかもって、思うメンタルの人とか、ぼく、嫌いですよ」軽蔑を言いつつも、成増が車を降りると近藤も車を降りた。「まあ仕事はしますが」

「ああ、お前は、そういうところが見どころがあると考えているだ、俺は」

 成増は相手を見ないまま背中でそう告げて、物陰に隠れながらグラウンドへ近づく。その動きには鋭さがあった。ひとめで訓練された者の動きだとわかる。

 ふたりは瞬く間に、京一が所属するベンチのそばまで近づく。

「いま、ぼくたち草場の影に隠れてますね」と、茂みの中に身を納めながら近藤が言う。「こういうこと、やらない人生がよかったんっスけどね」

「静かにしろ」

 成増が小声で、小声を制す。

 すると、ベンチの声が聞こえてきた、しゃべっているのは眼鏡をかけ、口にマスクをした女子マネージャーだった。

「あの監督」呼びかけ、続けた。「京一くん、救急車を」

「ああ」監督は試合が中断したグラウンドを眺めらうなずく。「しかし、彼は、野球部ではない」

 なにか、責任を逃れるようとしている会話だった。

 成増はそれを耳にして、近藤へ視線を向けた。

 そして、視線で話す。

 いまの、きいたか、おい。

「目を剥いてどうしたんですか」近藤は冷ややかに返す。「視線でメッセージを送るのやめてくださいよ、職場のストレスですから、それ」

「よし、あの救急車を追うぞ」

「わあ、けっきょく、ふつうにしゃべりましたね。いや、いいんでけど」近藤は困惑しながら続けた。「きほん、どうでも」

「ターゲットの少年が、なにかのきっかけでバトンを落とすかもしれん。事故につけ込むのは人道に外れた行為だが、それでも俺はやるぜ。こい、運転しろ、俺は運転が下手だ」

 成増は茂みをゆらし引き返す。近藤は、緩慢な動きでつづく。

 そして、後ろの茂みが揺れるのを、女子マネージャーが眼鏡を太陽に反射させながら、じっと見ていた。それから「ああいうの増えたなぁ、さいきん」といって、さらに「ああ、身を守るために、際どい武器とか装備して生活したいなぁ」と、つぶやいた。

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