第06話 ちかくの席
彼女は背中でふたりの会話を聞いていた。『水巻 春』は鋭く耳をすませていた。鼓膜を最大稼働させていた。
小柄で、髪は短く、耳にかかったほどしかない。
少女だった。
ときどき、少年に間違われる。
小学生の、少年に、である。
相手が少年に間違えたとき、水巻は、いつも心のなかで、ふふ、っとほくそ笑んでしまう。
よしよし、また間違えたぞ。欺いたぞ。今日も、欺いてやった、この世界を、そう、欺いてやったのさ。
と。
その外貌の維持、すべては彼女の作為である。相手を過った判断に導きくのが趣味である。
重度のむなしい時もある。
でも、へちゃらさ。と、そう、自身を、鼓舞する日もある。
ひとり遊びは得意、と、心の中で無へ向かって豪語しつつ、水巻はイヤホンを耳につけた。音楽は流さない。音楽をきいているふりをした。
前の席へ座り、背中で七見と京一の会話を聞いていた。晴れた日は、ふたりはいつも屋上で昼ごはんを食べる。小雨の日も、ふたりは屋上でごはんを食べる。七見いわく、小雨なら我慢して食べているらしい。しかし、今日は小雨ではない、ざあざあぶりだった。ここまでの雨の場合、七見と京一は後ろの席でごはんを食べる流れだった。
そんな雨の日、水巻はふたりの会話を背中で聞くことを楽しみにしていた。趣味の部類に入る。
水巻は、七見とは高校二年生からの同じクラスだった。彼が、幼少期から子役をやっていることは、クラス中はおろか、校内の公然の情報だった。有名な作品には出演していないし、頻繁に役者の仕事をやっているわけでもないが、探せば苦も無く7観ることが作品には出ている。
芸能人と同じクラス。しかも、いまはわたしのすぐ後ろの席。
その状況に水巻は、近年、猛っていた。
血が沸く。
もとより、席が近くなる前から、七見のことは注目していた。ただ、注目するだけで、声はかけない。
いろいろ聞いてみたいことはある。芸能人を見たことあるの、など。でも、声はかけない。
恥ずかしいからだった。理由その一点のみだった。他には何もない。
ところが、二年生で同じクラスになった。その事実を知った時、うひょ、と声をだした記憶がある。そして、彼の前の席になったとき、やるねえ、と、思った記憶がある。
しかし、同じクラスになり、席も近くだったが、声はかけられなかった。恥ずかしい。
そんな日々を過ごしていると、ある日をさかいに、そんな後ろに七見へ、京一という別のクラスの男子生徒が接近してきた。頻繁に、七見に会いに来るようになる。そして、真後ろの席なので、話は全部きこえていた。
どうやら、最近、京一も役者として、活動しようとしているらしい。盗み聞き情報から、情報を要約するに、京一は七見に癒着して、役者への道を開拓しようとしている。
あさはか、および、いやしい輩である。
きっと、心が蛮族なんだ、京一という奴は。
と、初期の段階ではそう思った水巻だった。だが、ふたりが頻繁につるみ、後ろから聞こえてくる会話をきいているうちに、その印象はなくなっていった。
ほぼ毎回、京一の言動、それから思いつきが、発狂者に近しいとわかってきたからだった。
対して、七見はそれをいつも、やんわりといなす。かわす。無視する。問題を回避する、問題を先送りする。
水巻は興奮した。ふたりのやり取りを、そばで聞いていたい。
よくわからないが、聞いていたい。
そして、今日は雨だった。ざあざあぶりだった。だから、昼ごはんのときに、ふたりのやり取りが聞ける。振動まで体感できる。
そわそわした。しかし、その、そわそわはふたりに悟られないよう、背後へ神経を集中させながら、カバンから弁当を取りだす。
わたしは、ふたりの会話など、微塵もきいていませんよ、感を醸しつつ、取りだした弁当を机に置く。
それは、巨大な弁当箱だった。
ああパパの弁当と、をまちがえた。
まちがえた、わい。
あやまちを迎えた、瞬間、水巻の時間はスローになる。限りなく停止した時のなかで、思考する。
そう、パパのお弁当箱とまちがえた。サイズ完全に違うのにまちがえた。あきらかに、向こうの方が二倍近い、いってしまえば若手プロレスラーの昼食みたいな弁当箱なのに、まちがえて持ってきた。カバンにぎゅうぎゅうの時点で気づかずに、学校のわたしの机の上に、いま推参だった。
いやまてよ。パパのお弁当箱とまちがえたんじゃない。パパがわたしのお弁当箱とまちがえたのさ。
よし、そう考えて、無罪を勝ち取ろう。
無罪ってなんだろう。
と、瞬間のなかでそこまでたどり着いて、弁当箱を見る。
とうぜん、巨大なままだった。願ったり、祈ったりしたところで、縮むはずもない。
もし、願ったり、祈ったりして、みるみるうちに弁当箱が小さくなったとしたら、それはエスパーだ。
なにより、わたしはエスパーではない。
水巻は心の内戦めいたものを展開する。しかし、第三者的な視点を与えてくれる参謀不在のため、自前の思想で戦い、そして、泥試合へと向かう。
それでも、やがて水巻は、でも、とりあえず、といった様子で、弁当箱を包む布を解く。巨大な弁当箱の蓋が教室内に露呈する。
もし、これをクラスメイトに見られたら、おまえすごい食べるな、っと思われる。すごい食べないのに、すごい食べるねと思われること、それはすなわち、以降のこの高校生活で、真実の自分を失いことになる。
試練を感じた。
そして、きっと乗り越えても、さほど実りのない試練だろう。むなしい、たたかいに身を投じる気分だった。
だが、そのときだった。強い視線を感じた。
強いというより、まるで妖気を帯びた視線だった。振り返ると、京一がこちらを見ている。水巻は警戒した。
いざというときは、悲鳴をあげて、誤魔化そう。
でも、悲鳴をあげて何が誤魔化せるというのだろうか。瞬間の葛藤だった。
すると、京一が指を差す。
それは、水巻が手にしていた、弁当箱を包んでいた布だった。
「オポッサム」
と、京一がいった。
つられて水巻も「オポッサム」といった。
言った後で、弁当箱を包んでいた布を見る。茶色い、胴長のげっ歯類のようなイラストが入った布だった。
ふたりの視線が布へ集中する。
すると、七見も前をのぞき込んだ。
そして、布を見ていった。
「オポッサム」
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