七月十六日(外) 「虚像」

亜暦三三六年 七月十六日(外)


 第三区画の非常口から、ふらふらと霊のように第四区画を目指し、俺は歩いた。旅人が第四区画に向かっていたことを覚えていたからだ。第四区画。……この前、極人機関に侵攻を行ってきたツツミが管理を任されていた──亜徒や澱みの最終処理場。極人機関に仇をなす者たちがどういう風になっていたのかは知らなかったが、こんな所で社会を作っていたとは驚きだ。

「何事も……無理解で殺し合うのだな」

 俺は着物に着いた土を払うと、しゃがみ込んだ。足には耐え難い痛みがあった。思い返せばここ数日、俺は飲まず食わずで一心不乱に歩いていた。道端の硝子片でも踏んで、出来た傷を汚水に浸けて、化膿でもさせたのだろう。

 痛みは俺からもう一度、立ち上がる気力を裂いた。全身が恐ろしく冷たい。

頭痛と寒気もする。俺は暫く動けず、血に塗れた足の傷を眺めていたが……やがて目を瞑り、浅い呼吸を繰り返して目を閉じた。

「……お嬢ちゃん?」

 突然、掛けられた声に目を開けると目の前に女が居た。女は不安になる様な長い黒髪を持っていて、右手が銃器の様に澱んでいた。

「……貴女は」

 背の高い女が作る陰と、いつの間にか背中を預けていた女の瓦斯二輪に挟まれながら、俺は口を開く。

「私?……ちょっとね。この先にある病院の監視をやってた者よ」

「世迷病棟」俺が呟くと、女は首を縦に振った。「そう。気狂いどもが造った……私の楽園よ。あそこは欠けていたけど、皆んなで助け合っていた」

女はそこでの日々を思い出す様に、目を瞑ったまま「でも、もう関係ないけどね。結局、あそこも私の居場所では無かった」と呟いた。

 俺はその言葉の意味を考えた。が、すぐにやめた。どうせ、俺には理解できないし、関係のない事だ。女との沈黙に居心地の悪さを感じ始めた頃、女は目を開いて言った。それはまるで俺への言葉ではなく、独り言の様な口調だった。

「亜球は人間信仰の世界だった。だから、皆んなで助け合えてると思っていたけど、幻想だったのよね……結局、人間の犠牲の上で出来た世界だから、私の様に割りを食う人間が生まれるの。……そういう省かれ者だけなら、本当に人間を愛する世界が作れると思っていたけど、やっぱり無理みたいね。……愛すことは出来ても、愛されたことが無ければ、不完全なのよ。愛されなければ、人間を好きになれないのよ……」

 俺は女に言う言葉が見つからなかった。だが、女の言っている事は身も蓋もないことの様に思えた。彼女の言う通りなら、俺や旅人はどうすれば良い?理想を追っても幸せになれないのか。仮に、世界を俺が救ったとしても、省かれ者は正しくあれないのか。……俺やモミジは幸せになれないのか。

「……私たちの世界は生まれた時から不完全だったのよ。だから、犠牲が必要なの。……でも、そういう開き直りは意味が無いわね」

 女はそう言うと、ガーゼを俺の足に巻きつけて、瓦斯二輪を指差し「要るなら持っていきな。私はもう急ぎの用なんて無いから……」とだけ言い残して、去ってしまった。俺は彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、瓦斯二輪のシートに座って、病院を目指した。


***


 俺は第四区画の北端にまで来ると、瓦斯二輪を降りて、先に見える薄暗いトンネルを視界の中心に据えた。トンネルの入り口には、風化しかかった肉機械が至る所に転がっており、血液が固まったみたいにどす黒い色を周囲にぶち撒けていた。

「お前もこうなるのかもな」

 俺は瓦斯二輪の方へ振り向く。瓦斯二輪は澱み切った瞳を見開いており、何も言葉を発さない。当然だ。肉機械に情を抱くのは間違っている。そう先人が決めたのは、正しい決断だろう。

……ここで乗り捨てられて、朽ちていくだけの物を生き物と認めるわけにはいかない。認めてしまえば、俺は俺でなくなってしまう。

「……そんな目で見るなよ。俺は旅人みたいに馬鹿じゃない……救いようもない物に希望なんて与えたくない」

 肉機械は所詮、肉機械。フタワだってそうなのだ。旅人の感じた極人機関への危惧は間違っていないが、奴はそこだけ間違っている。

「何がフタワだ……生身の私の方が良いに決まっている……はっ?」

 口をついて出た言葉に、思わず俺は赤面した。だけど、構うものか。この先に旅人は居る。間違いなく。その事実が俺の足取りを軽くさせた。


***

トンネルの先には、コンクリート作りの住宅街が広がっていた。

あちこちには灰を被った電光掲示板が横たわっており、その明かりだけが景色を照らしていた。

「……これが、外か。旅人はどう思ったんだろうかな」

 俺は思わずそう呟いた。この街は冷たい……しかし、間違いなく俺のルーツはこの街にある。この廃れた街が亜球を作ったんだ。

 思案に暮れていると、遠くの方で鐘の音がした。「……なんだ?」

 音のする方へ首を向けると、古びた時計塔が聳えているのが見えた。俺はその鐘の音に誘われる様に、時計塔の方へ歩いて行くことにした。旅人が……生きている人間が居るとすれば、あの音の先にしか居ないだろうから。

 時計塔の中は老朽化が進んでいるらしく、歩くたびに床板が軋んだ。俺は足を滑らせてしまわぬ様、気をつけながら奥へ奥へと進んだ。時計塔の最奥部には大きな鐘があった。その前には長椅子が等間隔で並べられており、礼拝堂めいた様相を醸し出していた。そして、その中心の舞台──鐘の真下に位置する場所で、フタワが横たわっていた。俺が少女の名を呼ぶと、彼女は怠そうに答えた。

「……あなた…は……?」

 フタワの上半身は、以前の様に傷だらけではあるものの正常に動いていたが下半身は違った。下半身は二輪の頃の様にタイヤ付きに戻っていた。旅人の奴は清めるのに充分な水を彼女に与えていない。節約でもしていると言うのか。

「……マグロだよ、覚えてる?旅人を罪滅泉で見送った……」

 そう告げると、彼女は少し間を置いてから「ああ……あの人……」とだけ言って目を瞑った。

「待ってくれ、旅人は何処だ?答えてくれ、フタワ!」

俺は目を瞑って、動かなくなったフタワの歪に尖った肩を何度も揺らす。

「……近くに…居る…」彼女は弱々しい声でそう言う。

 俺はそれ以上何も言えなくなって、手持ち無沙汰で舞台に座り込んだ。舞台の前からは長椅子に座る者の姿を拝めた。長椅子の上には、土を捏ねて作ったみたいな人型の“何か”が何体も座っていた。

 皆、一様に口を開けた無表情を浮かべている。

「……こんな、君の悪い場所に置いていくなよ。俺より大切だって言うならさ……」

 俺は途端に、フタワが不憫に感じてきた。思えば、俺は彼女の事を何も知らない。何を求めているのかも分からない。きっと、旅人にも分からないだろう。彼女は何処までも未熟なのだ。未熟だから現実を受け止めきれず、自分の居場所はまだあると信じてしまう。こんな世界で、そんなものある訳が無いのに。もしかしたら、そんな彼女の無遠慮な希望に旅人は耐えきれなかったのかもしれない。だから、彼女を動けない状態にして放置したというのも充分にあり得る話だろう。

「悪く思うなよ……フタワ。旅人を恨むなよ……アイツだってただの人間なんだ」

 俺はもう何も考える事が出来ず、長椅子の群れを見下ろしていた。が、すぐに飽きが来て、フタワに向き合う形で身体を横にした。このまま、眠ってしまうのも悪くない。……本当に、旅人が近くに居るのなら起こしてくれるだろう。

 そう思った矢先、頭の上に銃弾が撃ち込まれる音がした。

「な、何だ!!」俺は上体を起こして、音のした方を睨む。するとそこには、見覚えのある黒い一対の羽根が生えた男が居た。男の手にはハンドメイドらしい銃器も見えた。

「……君、もしかして……マグロか?」

旅人は俺を見るなりそう呟くと、長椅子の群れを横切りながら俺に近づいてきた。

「そ、そうなんだな……無事で良かった。世迷病棟の連中が第三区画を強襲したって聞いていたから、心配だったんだ」

旅人は空笑いをして銃器を横の長椅子に捨てると、フタワの方へ歩みを向けようとした。

「……ぶ、無事なものか!!お前のせいで、私は完全に女に澱んでしまったんだぞ!お陰で、責任に押しつぶされそうになった!畜生!!」

俺はただ、怒りとも喜びともつかぬ感情を胸に、旅人の胸へ倒れ込み、頭をぶつけた。

「……“私”?君、俺は辞めたのか?」旅人は困惑した顔で、俺を眺めた。

「………や、あの……これは、だね……旅人君……」

俺は情けない声を上げながら、旅人から離れて視線を逸らす。

「よく分からないけど、話は後で聞こうか」

彼はそう呟いてから荷物をフタワの横へ置いた。荷物の中身は本だった。どうやら、彼はこの外ノ世界の書物を集めているらしい。

「積もる話もあるだろうが、生憎。私は暇じゃない……手伝ってくれるなら、居ても良いが、そうでなければ帰ったらどうだ」

彼はそう言うと本の中から、適当に一冊抜いて読み始めた。

「馬鹿言うな。もう、わた……俺には帰れる場所なんて無いんだよ。……旅人君は、またフタワの為に何かやってるんだろ?」

「そうだ」旅人は本から目を逸らさない。「私にとってフタワは何にも変え難い特別な存在なんだ。敷かれたレールの上には存在しなかった」

 俺はついさっきまで感じていたフタワへの同情が抜けていくのを感じていた。やっぱり、あの肉機械は気に食わない。

「そうか……でも、俺はね?そういうことの意味、分かってきたんだ。だから、力になりたいな……」

俺がそう言うと、旅人は「心強いな。やっぱり、持つべき物は友人だな」とだけ溢した。ようやく、彼は俺を必要としてくれた。

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