七月十四日(腎) 「亜徒の少女」

亜暦三三六年 七月十四日(腎)


【地獄という物を見た事はないが、俺はアレを地獄と呼ぶ事にしたい。酷く暑い……止まった時の中で見る白昼夢を。】



昼下がり。罪滅泉にまばらに客が来る時間。

勿論、俺の仕事は以前から変わっていない。精々、“日課”をやる位だ。


──旅人を探すか?それとも、このまま新世界の聖母にでもなるのか?


 俺はモミジが客の間に出て、すっかりがらんどうとなった部屋の片隅でぼんやりとそんな事を考えていた。

自分の身体がもうそのどちらの道を選べる時期に来てしまっている事は分かる。だけど、いまいち決めかねた。

俺の中の“男”がそのどちらも拒んでいるのだ。勿論……自分を、若しくは世界を裏切るというのが怖いのもある。

しかしそれ以上に俺の中の男がきえてしまいそうなのが恐ろしい。

旅人に会って、「俺も自由に生きてみたい」と言ってしまいたい。

そうすれば彼はきっと俺を……いや、どうせ「フタワが〜」と言うだろうな。

アイツはそういう奴だった。

それに何より、今の俺をアイツは友達と呼んでくれるのだろうか?

俺がアイツに惹かれてしまっている事がバレたら居づらくなるだけだ。

それに、もし……仮に、アイツが俺を……少しでも好きになってしまったら、それこそ幻滅物だ。俺はアイツに女扱いされたい訳ではない。というか……。

「……畜生!!私はいつから雌豚になったのだ!!結局、世界を捨てる方に思い切り舵切ってるじゃないか!?」

俺は自室で叫んだ。羞恥と自身への怒りからくる叫びだ。

『本当はアイツに好かれたい癖に……乙女の様な心持ちで、まぁ。』

と 頭の中でもう一人の俺がそういう風に笑うから余計に恥ずかしい。

やがて恥ずかしさで布団を被って震えていると、唐突に部屋の扉が開いた。

扉の先にはモミジがいる。彼女は恥ずかしそうにシーツを纏っていた。

よく見ると身体には小さな傷跡が所々あるし、その傷の隙間から見える皮膚には黒ずんだ澱みがある。

「あんまり見ないで……ちょっとドジしたの。お陰でヤンにも、お客様にもこっぴどく怒られたわ」

俺がそれを凝視しているとモミジは、恥ずかしそうに言った。

それから彼女はゆっくり俺に歩み寄ってくる。俺は一瞬ドキリとしたが、彼女がただこちらを抱きしめてきただけだったので安心した。

「マグロ……やっぱりあったかい。人の温もりだわ。他のどんな人とも違う、本物の」

モミジはすっかり緩んだ表情で懸命に俺を抱き寄せて、照れもせずそんな事を言ってくる。俺はされるがまま。もうすっかり慣れた事だ。

「モミジ。抱えてても苦しいだけだ。俺に話してみて。何かあったんだろ?」

勢い任せの抱擁に思わず、押し倒された俺がそう言うと、彼女はその小さな体躯の何処にそんな力があるのかと言わんばかりの勢いで俺に乗ってきた。

そうして俺を布団越しに見下して言う。

「……ねぇ、私ってこれからもずっとこのままなのかな」

「さあね……でも、俺次第なんでしょ」

俺はモミジと目を合わせずに答える。

「そっか。そうだよね……だったらさ、やっぱりマグロが私を救ってよ」

モミジは軽く笑いながら、俺にそんな残酷な事を言う。

『私の為に世界を救って。罪滅泉で働かないで済む様な世界にして』彼女のそんな悲痛な叫びが、彼女と殆ど年も変わらない俺に重くのしかかる。

彼女は俺に病的な程に期待をしているのだろう。

それを裏切る事は俺にはどうしても出来ない。恩があるのは事実だったからだ。

彼女以外の女とは数える程も話していない。彼女は俺が知った“女”の全てだ。

俺は知り合った人間を切り捨てられる程……まともじゃない。

かといって、俺は自分の人生を痛みと絶望の海に沈めたい訳でもない。

産む為だけの機械になんてなってやるものか。

(畜生……どうして俺はこんなにも道が少ないんだ!!どうして、俺なんだ……誰かやれよ、代わりにやってくれよ……)

俺はモミジと見つめ合ったまましばらく呆然としていたが、思い立って「厠へ行く」とだけ言って部屋を出た。──兎に角、厠だ。

考えるのも、答えを出すのもまた今度だ。……そうだ、彼女と話して説得してみよう。二人で旅人を探して、自由になろうと言ってみよう。

俺は楽観的にも思える考えを秘め、罪滅泉の一番奥に位置する厠へと足を進めた。切り出す言葉を考える為の帰りの時間を長く作る為だ。


***

 厠を出る直前、俺は廊下の外で火の粉が舞っているのを見かけた。

「火事か……」

なんの感慨もなくそれを眺めていると、火の粉はすぐ横の家屋に移っていった。確か、そこは罪滅泉の客も取れないような下女が暮らす寮だった。

火が次第にその下女達の住まう部屋に移り、煙を吐き出した頃には彼女達は逃げる間も無く焼け死んだらしい。

火事に気が付き、逃げ惑う使用人達の悲鳴と共に肉の焼ける匂いが俺の所まで流れてきた。何人かは生き残るだろうが、結局殆ど死んでしまうだろう。

世に疎い俺でもそういう無情はなんとなく分かっていた。が、俺はなんの気なしに火の方へ足を進めてしまった。

 家屋の中は灰と煤の巣窟だった。俺は灰に膝まで浸かりながら、揺らめく炎の中を歩き、蜘蛛の子を散らす様に逃げる下女達とすれ違った。

全員顔には恐怖が浮かんでいて、完全に冷静な判断を失っていた。そんな彼女達を見ていると何だか……なんていうのだろう。

そう、羨ましくなったのだ。きっと彼女達は恐怖を忘れ、生きていける。

俺と違って。俺に待つのは行き止まりか、罪か。

迷いなく進む俺に下女は幽霊でも見たみたいな顔で聞いた。

「貴女、そっちはマズいわ。もう、向こうの子達は助からない」

俺は下女の言葉に耳を貸さず、煙の中を進んだ。

下女の言う通り、奥には焼死体とそのなりかけが其処らにあった。

壁には焼き付いた手形が散見され、焦げた匂いは強くなるばかりだった。

焼け爛れた顔は火傷痕と歯抜けが目立ち、苦痛に歪む女の表情は見ていて気分のいいものではなかった。

「もう、安心しな。もう燃えないで済むから」

名も知らぬ女の姿に俺は自分を重ねていた。いつも、突然にして人生は変わる。俺がそうだったように彼女も変わった。違いは生きているかどうか。

ただ、それだけ。俺にはどうする事も出来ない。

例え、世界でただ一人の素養を持っていたとしても避けられない。

「死は絶対なんだ」

だから滅びも絶対だ。

こんな突然、人生が終わる世界なのだから滅びて然るべきだ。

 俺はそんな途方も無い考えを抱えながら、立ち去ろうとした。

すると、炎の向こうから、物音がした。大きい物音だ。

まるで何か大きな物が壁を擦るような。

しばらく目を凝らしていると、やがて大きなものが姿を現した。

それは人らしき物だった。が、形容しがたい奇妙な出で立ちをしている。

腕は四本生えて、口元は化け物の様に歪に曲がっているし、目は三対ある上にそれぞれが別の方を向いている。

「澱み切ってる……ここまで、醜悪になれるのか。人間は」

人の形をしていながらも酷く異質なそれが、こちらを凝視していた。

その不気味な姿に俺は思わず足を引こうとしたが、塞ぐように“それ”が声を掛けた。

「失礼だな。確かに見てくれは悪いが、まだ意識はあるんだ」

俺が怯えていると“それ”は悲しそうにそう言って、まるで泣き真似をするように目を細めた。

しかし、よく見ると顔にある目は全て別方向を向いており、その様は酷く不気味だった。

「機械化遷移薬を飲んでな。この様な肉機械となった。私はツツミの考えに共鳴したつもりだったが、足らなかったらしい。俺の心は故郷、「亜球」焼く事に対して反対した。お陰で、罪悪感で更に澱んでこのザマだ。もう気道が変化したらしく、呼吸が苦しい。殺してくれ」彼がそう言う。

俺が言葉に詰まってそいつを眺めていると、不意にそいつが笑みを溢した。

「いや、いい。忘れてくれ。どうせ、もう長くない。お前に何かして貰う必要も無いな」

そいつはそう言ってから「ああ」と苦痛に耐えかねる声を上げて、倒れた。まだ息はある様だ。

「ツツミってなんだ?お前らはどういう目的で亜球を燃やしてる?」

俺が聞くと、彼は面倒そうに俺の手を払いのけてから、顔を歪めて何かに耐える様にして口を開く。

「ツツミは第四区画の医者だ。自由意志や愛を信仰して、それを束縛する極人機関に反省を促そうとした……この侵攻もそういう目的だ……」

彼の言葉は力なく漂っていて、とても聞き取り難かった。だが、俺は必死に耳を澄ませた。

「しかし、ツツミの目的は結局、停滞だ。この亜球を救う事にならん。それどころか重圧を理由に罪なき者を殺すなんて……俺はなんてことを」

やがて彼の身体がピタリと止まったかと思えば、全身を痙攣させ始めたのだ。

そして彼はそのまま動かなくなった。死んだのだろう。

 俺はその場を離れて、モミジの待つ部屋に向かう事にした。


***

 モミジと俺が暮らしていた部屋は既に伽藍堂となっていた。

彼女は退避したのだろうか。

辺りを見渡すと机の上に書き置きがあるのが見えた。

俺は周囲を確認してから、それを拾い上げた。

『マグロへ。私は他の湯女と共に罪滅泉を退避する事にします。外で落ち合いましょう。死んだりしないで』

モミジの砕けた字でそう書かれていた。

俺は書き置きを机の上に戻すと、ぼんやり出口の方を眺めてみた。

「どうしようかな」

俺は以前よくモミジが座っていた座布団に向かってそう呟く。

当然、返事は無い。

「俺はさ。今、死んだかどうかも分からない身なんだろ。だから、俺がやりたい事やらして貰うよ」

ふと、窓辺に立ってみた。窓枠からは通りを歩く湯女が見えた。

きっと、あの中にモミジは居るのだろう。

「俺はツツミって人に賛成だな。たった一度きりの人生。例え、滅茶苦茶になったとしても自由が良いよ」

極人機関の思考はもう既に俺には無かった。

窓辺に居るのは亜徒の少女が一人居るだけだ。

「誰が俺をそんな風に変えたのかな。極人機関、旅人……モミジでもない。もっと違う誰か。……俺か」

鏡には哀れで美しい少女が映っていた。世界の鍵を握った“普通”の少女が。


──そして、少女は裏口を通って誰も見ぬ間に消えてしまった。

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