七月十四日(腎) 「後悔のない様、お元気で」

亜暦三三六年 七月十四日(腎)

【悲劇という物は大抵どうしようもない“どん詰まり”になってからその顔を見せるそうだが、間違いはないだろう。どうしようも無くなってただ泣くだけになってから、若しくは、痛みを感じないぐらい自分が無くなってから気付くんだ。

悲劇にはもう一つ間違いのない事がある。それは予兆がある事だ。

私の前にも予兆があった筈だ。だけど、私はそれを敢えて見過ごした。

人はどうしようも無い程、面倒臭がりだ。いや、違うな。私がそうなだけなんだ。何はともあれ、私がやっているのは責任逃れに過ぎないのだろう。】


「何してるの。早く行こ?」

日記に向かって取り憑かれたみたいに文字を書き殴っていた私の背後から声を掛けられる。振り返れば、そこには背丈に合わない程に大きなリュックを背負ったフタワが立っていた。

相変わらず表情の変化に乏しいが……今日はなんだか機嫌が良さそうに見えた。彼女は私に向かって手を差し伸べて来る。

「旅人?……どうかしたの?」

私はその手を取るべきか迷った末に彼女の手を取った。

すると、そのまま手を引かれる。私はされるがまま彼女について行き、入った時とは逆向きに世迷病棟を歩く事にした。

途中、フタワは振り返りもせず、何も言わなかった。

私も倣うように黙っていたが、不意に彼女の足が止まった。

彼女の視線の先には重症の患者が居た。

患者は腕が折れているようで、杜撰に巻かれた包帯が痛々しかった。

「どうかしました?……誰か他の患者を呼びましょうか?」

私は患者の異常な姿に少し気後れしながらも彼に声を掛けてみた。

すると、彼は私を見るなり、乾いた笑い声を上げて首を振った。

「いや……どうせもう誰も残っちゃいないよ。皆んな、街に向かっちまった」

私はなんと声を掛けるべきか迷った末、曖昧な笑顔を浮かべてその場を立ち去る事にした。

去り際に彼の目線が此方の隣を歩くフタワに注がれているのを見て、私は咄嗟に彼女の手を握る。

なんだか、彼の眼差しがフタワを陥れる悪い人間のそれに見えたからだ。

そしてそのまま足早にその場を去った。彼女は何も言わずただ私の手を握り返すだけだった。


***

その後、私とフタワは手を繋いだまま玄関窓口の方まで歩いて行った。

玄関には漢字で書かれた小難しそうな医療に関するポスターや病棟のルール表なんかがあちこちに貼られていて、隅には地下へと繋がる扉があった。

そして丁度、私達が着いた頃にロビーの照明が全て消えた。社外から差し込む光だけが煌々とロビーを照らしていた。

私はフタワの手を強く握り返しながら彼女の方を見た。彼女は心配そうに、何度も此方を見上げていた。

「……フタワ、大丈夫だよ。もう後は、出るだけだろう?」

そう言って下手な笑顔をフタワに見せていると、前の扉が開いて、そこからハザマの姿が見えた。

「君にとってはそうでしょうね。……ったく、ツツミの奴。機関に反乱を起こしてどうするつもりよ」

ハザマはそう呟きながら私達の元までやって来る。

彼女の色白い両腕は黒光りする凶悪な銃器の形に変わっていた。

フタワはそれを見て私の後ろに隠れるようにしてハザマを見る。

しかし、私はそんな彼女を庇うようにして立ち塞がった。

彼女は少し驚いた顔をした後、不機嫌そうに鼻を鳴らして私の方を睨んで来た。

「別に君達に何かするわけじゃないわ。私は責任取って此処を整理するだけ」

「整理……?」

「そうよ。というか君、昨日の事を忘れた訳じゃないでしょ?」

私はつい昨日の事を思い出して萎縮してしまう。私も片棒を担いでしまったからだろうか?


***

 昨日の十三日。その日の昼食時間はいつもと変わらなかった。

その日もフタワは配膳作業をしていて、私は栄養補給程度の気持ちでそれをかき込んでいた。

確か、ハザマに世間話とフウリの件の糾弾みたいな事をした記憶がある。事の発端はツツミが壇上に立った時だったと思う。

ツツミは皆んなに対して治療と偽って機械化遷移薬を飲ませたと告げた。

彼はそれから、ただ淡々と「遷移薬を飲ませたのは正義の為」と繰り返し説いていた。

「自分達が幸福なのは何故か?……それはお互いを信頼しているからだ」

「人間の素晴らしさはただ前に進む反骨精神にある。……それを機関に我々はお互いの信頼と共に奪われた」

「だから、これは人間性を取り戻すための聖戦だ。我々は共犯なんだ……罪を認め真実の姿になるんだ」

……そんな感じの事をツツミは言っていた。

そして自分やハザマ、フタワ以外の人間は洗脳でもされたみたいに雄叫びを挙げて……そう、皆んな澱んでしまった。

残ったのはその場に居合わせなかった怪我人だけか……。


***

私はその事を思い出して顔を青くしていると、ハザマが不機嫌そうに睨み付けてきた。

「皆んなはどうなったんだ……」

私が青ざめたままそう聞くと、ハザマは更に不機嫌そうな表情を見せた。

一度は一緒に寝た仲だと言うのに、容赦の無い眼差しだった。

「ツツミとフウリに連れられて亜球の中心に向かったよ。多分、今頃は第三区画にいる筈」

「はは……私の家が潰れてなければ良いが……技師もマグロも怪我をして欲しくない……」

そう言うと、ハザマは更に、更に信じられないと言った顔で私を見て来た。

「君……どういう精神状態なのよ……?」

「分からん……それより、君はこれからどうするんだ?整理って言ってたが……」

「…うん?あぁ、取り敢えず残った肉機械化予備軍の怪我人は全員確保にでしょ?後はこの施設の解体かなぁ……はぁ、気に入ってたのに、ここ」

彼女はそう言うと、悲しそうな目をして階段の方を眺めた。しかし、突然立ち上がると私の後ろに隠れたフタワに目を向けた。

そして不機嫌そうに目を細めてから私に向き直った。

私はハザマの態度に困惑しながらも彼女の言葉を待つ事にした。

「……悪女。せっかく、似た者同士……仲良く出来そうだったのに」

「え?」

そう言った彼女の声があまりに小さかったので、思わず聞き直そうとすると彼女は振り返って「なんでもない……」

と言って去って行ってしまった。

結局、彼女とは最後まで牽制し合うだけの時間を過ごしてしまった。

「ツツミ……お前は信頼だとかなんとかを信じているみたいだが、人間はそんなに馬鹿じゃないぞ」

私がハザマと上手く魂で話せなかったように、他の人間も話す事をしないのだろう。

「わかり合うのはそれぐらい面倒なんだ……私は気の合う奴とだけ分かり合えればいい。皆んなそうだ……誰もお前程、他人に押し付けがましく無いんだよ」

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