六月二十五日(外) 「理想と現実のハザマ」
亜暦三三六年 六月二十五日(外)
どうやら私は相当の時間を睡眠に費やしていたらしい。
壁に掛かる時計で確認すると、今は午後の一時を少し過ぎた所であった。
「…二日も歩きっぱなしだったとは言え、油断し過ぎだな」
「本当よ。お間抜けさん?」
身体を起こそうとした間際、聞こえる筈のない返事に思わず私は飛び起きる。
私の眼前にはベッドに腰を掛けて楽しげに足をばたつかせる女が居た。女は私を見るなりにこりと笑って手招きをする。
「私はハザマ。一応、此処の監視役を極人から預かってるかな…言っても名前だけの物だけど」
ハザマと名乗った女は顔に火傷痕のような醜いあざを持ち、右腕が銃器の様である事以外はまるで普通の女性と変わらない。
私は戸惑い、警戒しつつ彼女を観察する様にじっくりと見て、問題なさそうなので手招きに応じベッドを立った。
……こうして近くで見るとユキネを思わせるなかなかの美人さんだ。
透き通るような白い肌に肩程までの黒い髪、少し薄汚れた軍服も彼女を魅力的に見せている要因の一つだろう。
彼女は私にとって理想の女性像と言える様な何かがあったのだ。何か私に目的を与えてくれるような……。
「その目線の先は足か地面か…どっちかなぁ?」
思わず、指摘に反応してしまう。私は驚いて彼女の顔を見ると彼女はケタケタと笑い始めた。
何だか遊ばれているような気もするが……しかし、不思議と嫌な気分じゃない。
実際、今私を見る彼女の眼には敵意なんて物は全く無かったのだ。
しかも、その声というのが甘く蕩ける様なハスキーボイスでもあればこうもなろう。
「い、いや別に…少し昔の知り合いに似てただけです」
「知り合い?」
「ええ。罪滅泉の…どうも彼女は私を好いてくれていたみたいでしたが、見ての通り、私はあの社会に入れなかった」
私の言葉に、ハザマはそれまで崩さなかった笑顔を少し曇らせた。
彼女は何事か考える様な仕草をした後、口を開いた。
「言い訳は良しなよ。…本当は社会じゃなくてフタワに惹かれたんだろう?私には分かるよ。…彼女は私が無くした物を持ってる」
「君は彼女に会ったのか?」
ハザマは「ええ。昨日、彼女を風呂に入れたので」とあっさり答え、続けて喋る。なんでも、彼女は昔、罪滅泉で働いていたらしいのだ。
当然、私は辞めた理由を彼女に問うと彼女は恥ずかしそうに口を開いた。
「…私さ。或る一人のお客さんを好きになったの。もう本当にその人の事が好きになったの。…人を好きになるとね?…その人以外との…その、えっと…あ、そういう行為がね?…心臓を引き裂いて、脳をぶち撒けたくなる程、心底嫌になったの」
そこまで話すとハザマは少し恥ずかしそうに、また、自傷気味に笑って見せた。……可愛らしい笑みだった。
しかしその笑顔は何処か、まだ未消化な食物の様な痛々しく溶ろけた怨恨の様にも見えた。
「…そうは言っても、執念深い客ってのは居るのよ。私は必死に逃げ回って…で、結局捕まって。…私の身体は嫌悪感その物になりました。もうあの人に会ったって純真なままではいれません。だって私は汚れてるんですもの。…それからずっと上の空。気持ち良いかどうかも分かりません」
「…それで、結局どうして辞めたんだ?」
私はハザマの言葉を遮るように質問した。彼女の言葉を聞いていたいとは思えなかったからだ。
或いは、これ以上ユキネの事を思い出したくなかったからかも知れない。
「…ん?ああ…行為が終わった後、さっさと帰ろうとした男を見てさ。コイツ死ねば良いのにな、って思ったら右手が銃になったの。…後はお察しの通りだと思うけど、男を撃って…罪人として機関に送られたの。でも、銃の形に澱むのはレアらしくてさ。それを理由に、晴れて軍属ってワケ」
「そうか…」私は深く頷く……と、彼女は思い出した様に時計を見て立ち上がった。
「お間抜けさん、時間だよ。ツツミがそろそろ怒ってるかも」
ハザマに急かされ私は病室を後にする。去り際、私は彼女の言っていた言葉を思い出した。
──彼女は私が無くした物を持っている。
無くした物とはなんなのだろうか?私はフタワの持つ物を「自由、或いは美」そのものだと思っていたのだが、彼女はどうなのだろう。
もし、同じ物を無くしているのならフタワの言葉や考えを理解してくれるのではなかろうか。
「いや、きっと私は彼女に理解して貰いたいんだろう…」
フタワの時と同じ感触。やはり野生の女は麻薬そのものだ。
***
ツツミは特に普段と変わりない顔(いつもガスマスクを着けているのだから顔という顔が無いが)で出迎えた。
「おう、遅かったな。…ハザマの奴に起こしてくる様に言ったのだがな」
「来たよ。極人は女を雇う事もあるんだな」
「ケースバイケースという奴だ。…まぁ、こんな辺境に送られてる事から見るに立場は下っ端以下だろうがね」
ツツミはそう言って鼻で笑うと、要件を話し出す。
「お前には私の友達という点も加味して、安全な業務をやって貰う。…つまり、当分は屋内業務だな」
「屋内業務…?外には出れないのか?」
「ああ。…どうして外に出たい?」
「いや、ちょっと伽羅盤の抜け穴を調べたいんだ。ほら、此処は未開地だし、あるかもしれないだろ?」
「ああ、確かに。…そういえば、伽羅盤の連中とたまにすれ違う事もあるしな…」
そう言ってツツミは顎に手を置く。考えている時の癖だろうか? いや、それより今の話を聞く分だと抜け穴の話は噂レベルの話では無くなった。
ツツミは顎から手を離すと今度は人差し指で上方を指す。その方角は工場だった。
「まぁ、それとこれとは別だ。やっぱりお前は屋内業務をやっておけ。伽羅盤を探るのはいつでも出来るだろう」
ツツミは有無を言わさぬ勢いでそう言うと、私にマニュアルの冊子を渡してくる。私はパラパラと軽く流し読みをすると、「分かった。だが、永遠に此処にいるわけでは無いからな」と釘を刺しておいた。
「ああ、分かってる。私だって永遠には居ない。勿論、この子もな」
そう言って彼は、生野菜を食べていたらしいフタワを見る様に視線で誘導する。
当のフタワは目が合うなり、齧っていた手を止めて気まずそうに視線を泳がした。
「…分かってる。フタワ共々よろしく頼む」
「あい、分かった」
私がそう言うとツツミは満足げに頷き、部屋を出る様促す。
私はそれに従い部屋を出た。
「労働か……」
外に出れば何かが変わる…なんて考えていたが、なんら変わりはしない。
何処も絶対的な支配者が居て、その下たる我々はむしろ有り難いだなんて言いながらひれ伏す。
自由など有りはしない。フタワが望む世界は此処にも無いらしい。
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