六月二十二日(腸) 「狂血の澱み」

亜暦三三六年 六月二十二日(腸)


「待ってたよ。旅人君」

私が罪滅泉に着くと、マグロは眠そうな眼を擦って出迎えた。

「…あぁ。どうも」

「なんだよ、その態度。…気が抜けるじゃないか。…で?モテ方とやらを教えてくれるんだろう?」

「中で教えるよ。私はヤンに女を見繕ってもらってくる」

マグロが首肯して待合室に向かうのを見送ると、私はヤンに伺う。

「2日振りで悪いが、女を…出来ればユキネを連れてきてくれ」

ヤンはギョッとする様な犬顔を此方に向けると、此方を伺う。

「ワンッ!…とは言えないねぇ、旅人さん?…何処か、澱みでもしたかい?」

「ああ、肌がね。鳥みたいになってしまったんだ。…それに今回は友人もいる。頼むよ」

「…別に、駄目とは言わないよ。ただ、ちょっと疑問だねぇ。澱みを払う所で澱みを得るなんてね」

「別に此処で澱んだ訳ではありません。空いた2日の間に澱んだんです」

図星を突かれた訳だから、声は少し上擦っていた。が、ヤンは気にも留めず主張を続けた。

「そうでしょうな。まぁ、私が言うのは邪推だよ。…そうだ。一緒に考えてみよう。……もし、此処で悩みがあるとすれば、きっと女絡みだろうなぁ…例えば、男女の仲になった相手との駆け落ちを考えるが、その道の過酷さに悩む…澱むには充分そうだなぁ」

「仮説の話は辞めにしよう。あり得ない。それよりユキネを連れて来てくれ」

私の願いを聞き届けたヤンは、静かに頷くと“裏手”に向かっていく。

その後、待合室で暇を持て余していると、奥の方から暗緑色の服を着たガスマスク男が姿を現した。

「…お客さん。ちょっと横、失礼」

世迷ヨマヨイ病棟」という刺繍が入った服を着こなすその男は私に一礼すると横を通り抜け、そのまま隣の椅子に寄り掛かる。

「……ああ、どうぞ。…その服は仕事着か?」

私の挨拶に答えず、男はマスクの隙間から煙草をふかすばかりで話そうともしない。

「名前は?…刺繍を見るに医者かな……」

私がそう口にすると彼は渋々、口を開いてくれた。

「なんで、待合室で男と話さなきゃいけないんだ…気まずいだろ…」

「なんで、気まずいんだ?」

「いや、だって…私はヤリたくって来てるんだよ。同じ女が目当てだとより、気が悪いだろ」

「確かに…考えもしなかった」

「甘い奴だなぁ。因みに、君の狙いは?」

「ユキネだ」

「ハハハ、あぁ…あのツレない女か。全然、誘いにも乗らないし…理想が高そうな女だよ。はっきり言うが、物好きだね」

そう言うと、彼はユキネを思い出した様にケラケラと笑う。

「そうか。性交渉は違法だって知っているのに、誰にでも股を開く様な女を選ぶ君の方が物好きだよ」

らしくない。そうは思っているが、ユキネを小馬鹿にされるのはやはり腹立たしかった。

ただ、最初に選んだ…それだけなのに。絆されているのか、告白をされたからなのかは分からないが、とにかく腹立たしかった。

「ユキネは……私が初めて自分の中で選んだ人間だ。私にとって湯女はアイツでなくてはいけない」

その言葉を聞いたガスマスク男は酷く驚いた様だった。

「……なんだ?何かに拘りを持つなんて、君は気でも狂ったか?だったら、すぐ再会できそうだな」

私は彼の言葉に答えずに、遅れて到着したユキネと共にマグロの元へ向かった。


***

「旅人さん…今日は、私を捨てに来たのですか?…でしたら、早くしてください…焦らされるのは苦しいばかりです」

ユキネはそのか細い手で背中をなぞる様に撫でると、そのまま優しく抱き寄せて来た。

私はそれに逆らう事なく身体を預けると、ユキネは私を抱きしめたまま耳許で囁き始める。

「旅人さん……貴方が望むなら、何をされても構いませんよ。もし貴方が私を要らないと言うなら今すぐ捨ててください」

その声に熱はなく、しかし透き通る様な心地良さがある。正に甘美という言葉が相応しい声だ。

「別に私は君を捨てないよ。だけど、今日はマグロという男の相手を適当にしていてくれ」

私はそう言って背後に首を向けると、あどけない少女の様に初々しい表情を浮かべる服を着たままのマグロが目に入る。

「な、なんだよぉ…俺の顔に何かあるっての…?それとも、もう脱げって…?」

「いや、別に。…一人称は変だが、良い奴だ。彼に色々教えてやってくれ」

「なに?君が教えるんじゃないのか…?」

「女の事は女に聞くもんさ。それに、私から言える事なんてにこやかにしていろ、ぐらいなものさ」

「ふぅん…じゃあ、君が言ってた「ある行為」というのはなんだ?」

そうだな、と口にして私はマグロの方を見る。

「君達を信用して言うが……私は今から湯を盗もうと思う」

その発言に驚いたのはマグロだけではなかった様で、ユキネもまた声を上げていた。

「やはり、二輪なのですか…?私ではなく……」

「旅人君。君はそれが重罪だって事は分かってるよな」

「勿論…でも、私はどうしても知りたいんだ。フタワは普通の犯罪者じゃない…きっと彼女は何かを教えてくれる。君も疑問に思ってたんじゃないのか?極人が本当に正しいのかどうかを」

私のその主張を皮切りに、しばしの間三人での無益な問答が続いた。だが、それも長くは続かず、結局折れたのはマグロだった。

「……はぁ…まぁ良い…現行犯で捕まえれば良いだけだ。恐らく、君は反逆罪で大好きな肉機械になれるだろうよ」

「ありがとう。恩に着るよ」

私が小さく頷くと、彼は帽子を深く被って俯いた。

「……惜しい男だ。君は世界の在り方に疑問を持つ程に賢いのに…どうして“極人”には成れないんだ」

「“極人”とは街の完璧な奴隷だ。私に言わせればそれはどんな気狂いよりも不自由にしか見えない」

「違う!……いや、違いはしない…俺も色んな物に雁字搦めだ。なにも完璧じゃない。でも、極人機関に言わせりゃ“極人”らしい」

マグロは語り終えると、小さな溜息を一つ吐いた。私は湯船にポリタンクを浸けながらそれを黙って聞いている。

「肉機械なんぞに入れ込むなんて君は気狂いだな。…そのくせ、昨日は一つ肉機械のココロを壊していた。…認めた方が気が楽だぞ。君は別に何も知りたくない。肉機械に同情した訳でもない。フタワとかいう奴を気に入っただけだろう?」

私がその言葉に答える事はなかった。ただ、軽く口先を綻ばせてやるだけだ。

「そうか…否定しないんだな。いや、でも…そうか…なにも…間違い…」

以前、ここに来た時にユキネが見せた様に暗い表情で呟きながら、彼は目を伏せる。

「早く行ってください。彼は私が見ておきます。……礼は要りません。最後の愛でしょうから。返事も要りません」

私はユキネのその言葉に甘えさせてもらう事にした。

一応、確認の為にマグロを見てみたが、ぶつぶつと呟いたままだったもので、放っておく事にした。

「それでは、呼ぶか」

そう言って裏口のドアを開けると、寒空の下で待たせていたフタワが目に入った。

「うん。予定通り、一人で来れたな。偉いぞ」

軽く頭を撫でてみると、赤い雫や泥が幾つか表面に付いているのが分かった。

「悪いな。人目につかぬ様、指示したばかりに…第四区画を渡ったろ?あっちの方は廃墟街な上に血の池があるからな…」

「……ウン…デモ…タビ…ビトノ…タメ…ナラ…ク…ジャナイ…ヨ…」

彼女は微笑んではいるものの、呼吸がどこか不規則だ。

肉機械故に多少の傷では死なないが、第四区画を渡ったとなれば肌や回路に傷が入ってもおかしくない。

「グビャァ…アァ……」

「あぁ……悪いな……血まで吐かせて……コレで拭くぞ?」

そう言ってタオルで何度も力を調節して拭いていく。そして、粗方拭き終わった頃にフタワと目が合った。

「…オ…ワッタ…?…」

ああ、と気の抜けた返事を返してみるが、私の頭の中は別の事で一杯だった。

それは、彼女の顔だった。醜い肉機械の身であっても、彼女の顔は美しく見える。

勿論、あの血の気が抜けた顔が美しい訳はない。だが、醜悪と一蹴する事は決して出来ない。

肉と骨だけで出来た機械の贋作のそれが美醜を問わず美しいと感じるのは何故なのだろうか。

「…オ…ワッタ…ノ…?」

フタワの問い掛けにハッと気が付く。彼女の表面を見ると唇の上に赤い雫が見える。

「いや、拭き残しを見つけた」そう言って私は丁寧に舌を使って、接吻をする様に唇の表面を拭った。


***

フタワの頭上で並々一杯に溜まったポリタンクを傾けると、タンクの口から大量の湯が流れ出た。

どくどくと、血液の如く流れ出る湯を見つめながら私の中に恐怖に似た何かが静かに生まれ始めた。

「ワ…ワァ…アたたかい…アカルい…ハッきり…ワかル…」

お湯に濡れた肉機械の身体は一層艶やかさを増していくが、どこか恐怖を纏った虚しさを感じさせる。

少女の様にあどけなかった彼女が、大人の知恵を身に付けた女に変わっていく様な、あの虚しさを感じる。

「気持ちいい…ケド…イタァイ…痛い…痛い、痛い、痛い痛い痛いヨォ…」

ぼんやりとしていた目が見開かれ、車体となっていた肋骨が女体に戻っていく痛みに悲鳴を上げながら、彼女は泣き叫んでいる。

「ゴメンナサイ……旅人……ワタしをミすてナイデ…痛いヨォ…痛いヨォ…血がね、血がね…止まらナイのォ…」

私はただ横に座り、考えもなく、ポケットを探って煙草の箱にありついた。

気付けば、私はそれを噛み締める様に吸いながら彼女の哀れな姿を見つめるだけの存在に成り下がっていた。

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