第89話 帰依と望み
「——いかん!」
町の警鐘が鳴るよりも先に、膨れ上がる強大なマナを感じ取ったイグレシアスは、ガタッと立ち上がった。エクトルも同じように、マナとは別種の、今までに感じ取ったことのない不吉なもの——強烈な憎悪と殺意が混じり合ったものを感じ取った。
「イグレシアス、今のはっ……⁉」
エクトルは立ち上がろうとしたが、骨がギシッと軋む痛みに顔をしかめた。
「あのイザークとやらのせいで十二宮の一つが目覚めたっ! このままでは神国が飲み込まれる……ここもじきに危険になる!」
「くっ……」
わけのわからない事態に巻き込まれてしまったようだが、当然、エクトルは動ける状態にない。立ち上がり、歩くことは可能だろうが、まったく、よりによってなんでこんなときにと苛立った。
すると、慌てた様子でミリーナがやってきた。
「エクトル……! 町がおかしいのっ!」
「ああ……俺たちも今——」
そこで、カンカンカンカンと警笛が鳴り響いた。いよいよ町全体が異変に気づいたのだろう。
「ミリーナ、逃げるぞ……!」
エクトルは無理やり立ち上がるが、途端に床に膝をついた。思っていた以上に身体の内側の損傷が激しかったようだ。
それでも逃げねば。
いや、ミリーナだけでも逃さなければならぬ。
それはミリーナが聖女だからということではなく、純粋にエクトルの中に芽生えた気持ちではあったのだが、それすらも今は疑わしい。
消えし始めた結果、主を助けなければならぬという思いにかられているだけなのかもしれない。
それでも、ミリーナを逃さなければならぬという思いに、嘘偽りはないとエクトルは自分に言い聞かせた。
しかし、この身体でどうやって——
エクトルははっとしてイグレシアスの顔を見た。
「イグレシアス、すまない……」
「なんだ?」
「ミリーナを連れて先に逃げてくれないか? 俺はあとで追いつくから……」
「ダメ……!」
と、ミリーナが横から口を挟んだ。
「エクトルも一緒に逃げるのっ!」
「しかし……」
「あなたを置いてはいけないわっ!」
「ミリーナ……」
今にも泣き出しそうなミリーナを見て、エクトルは困った顔をした。このままではてこでも動かないだろう。気絶させて、イグレシアスに運ばせるのも一つの手だが、なるべくなら自分の意思でここから逃れてほしい。
すると突然、なにか巨大な力がこちらへと迫ってきた。
かと思いきや、急に屋根が灼熱の炎で消し飛んだ。
瓦礫が落ちる。
が、イグレシアスが空に手を掲げると、瓦礫は光の球体に阻まれて、エクトルたちの頭上には落ちなかった。
エクトルははっとした。
自分を包むように覆いかぶさっていたのはミリーナだった。
自分を守るために、我が身を盾にしようとしたのだろう。幸い、この場にイグレシアスがいたことで危険は防がれたが、ミリーナは命がけで自分を守ろうとしてくれたのだ。
「エクトル……お願い……」
「ミリーナ……?」
「——私を、一人にしないで……」
その震えた弱々しい声を聞き、エクトルの胸の内からなにかの感情が一気に溢れ出た。
そうして、エクトルは自分の非力さを情けないと思った。心の中では言い訳ばかりで、なにひとつ彼女の思いに真正面から応えようとしてこなかった。
それなのに、なぜか——
今は、この瞬間だけでもいいから、この人をただ守りたいと望んだ。
上空で火の粉が舞い、星空が見下ろす中、ただこの一人の娘を守りたいと、そう望んだのだった。
するとイグレシアスがなにかを諦めたように「はぁ」と息を漏らした。
「……帰依するしかない」
イグレシアスは二人に向けて言った。
「ミリーナ、自分が聖女であることにまだ迷いがあるか?」
「……はい」
「受け入れろ。さすれば、一歩聖女へと近づく」
「どうすれば……」
「望め。この世界のすべてを守りたいと望め。その一部であるエクトルを守りたいと望め。聖女になりたいとかたく望めば、心の扉が開く」
イグレシアスは最初から知っていたかのように話した。
いや、知っていたのだろう。ここにきて、ミリーナの覚悟を試したわけではなく、そうしなければこの危機を脱せないという諦めが、先ほどのため息に込められていたのだ。
ミリーナは指を組み、かたく目を閉じた。
「私は……聖女になってこの世のすべてと、エクトルを守りたい!」
「もっと強く!」
「……私は、聖女になりたい! なって、みんなの力に——」
すると、ミリーナの胸元が青白い光を放ち、やがてそれは強烈な光を放った。
あまりにも強い光だったので、エクトルは目が眩みそうになったが、かたく目を閉じ、腕で防いだ。
キィーーーン——……
長い耳鳴りのあと、エクトルは光が収まってきたのに気づいて、静かに目蓋を開けた。
そして、驚いた。
たった今まで屋根の焼け落ちた屋内にいたはずなのに——
「ここは……」
エクトルが何度も夢のように見てきた、阿鼻叫喚の地獄絵図の中。
死屍累々、黒煙の上がる王都の中心部に、エクトルはぼんやりと突っ立っていた。
『——ここが貴様の内側か……』
はっとして後ろを振り返ると、そこにはミリーナが立っていた。
「ミリーナ……いや、違う」
姿形はたしかにミリーナだったが、中身が違うことにエクトルは気づいた。
『騎士よ、この【器(うつわ)】をよくぞここまで守り導いた。褒めてつかわす』
「あんたは……【銀の疾風(はやて)】……」
ミリーナの姿を借りた銀の疾風は、薄っすらと笑みを浮かべた。
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