第87話 兆し

「……ふむ、今宵は高みの見物だと決めていたが」


 エクトルたちの拠点の屋根の上、町中でのイザークたちの戦いを遠望していたイグレシアスは、唸るように言って屋根を下り、窓からエクトルの部屋に入った。


「イグレシアス、どうだった?」


 町中から発せられる三つの殺気に気づいていたエクトルは、動かせない身体をもどかしく思いつつもイグレシアスに訊ねる。


「イザーク……あの者が双子に一太刀浴びせたところよ」

「そうか……」


 逃げる一辺倒だったエクトルは、港町での戦いを思い出した。あれは手を抜かれていた。わざと殺させた。あるいは、わざと死んだふりをした——いずれにせよ、イザークがあのとき本気でなかったことを口惜しく思った。


「存外、イザークとやらはお前やミリーナを殺す目的はなかったのかもな」

「では、なぜあの日……」

「わからんが、ミリーナにトドメを刺す風でもなかったのだろう? 毒針を何本か——当然死に至る可能性はあったが、もう一つの可能性に賭けたか……」

「もう一つの可能性?」

「ミリーナが魔女ではなく聖女であったという可能性だ」


 キィーンと窓の外から金属がぶつかり合う音が聞こえた。激しくぶつかり合っているのだろうとエクトルが思っていると、空が急に明るくなった。


「ふむ……閃光の火薬玉だ」

「そんなもの、なにに使った?」

「わかっていたんだ。あの双子は影から影へと移動する……が、どうやら生きている者の影には入れんらしい」


 だからあのときすぐに追いつかれたのか、とエクトルは理解した。


「あのままでは、いずれ町中で関係ない者が死ぬだろうな」

「どうする?」

「どうもしない……が、イザークの目的がわからん。あの双子の目的も……なぜ、同じ輪廻から外れた者同士が争うのか……あるいは——」


 イグレシアスはなにか心当たりがありそうに、そっと顎に手を置いた。


「存外、面倒なことになっているのやもしれぬ」

「面倒?」

「ミリーナとは別件だ」

「別件とはなんだ?」

「調整者と、それを拒む者たちがこの世界にいるということだ」


 エクトルはいよいよわからなくなったが、イグレシアスはそもそも魔法使い、彼の言っていることの十分の一も理解できないし、したところで今後の役に立つかはわからない。


 別件——つまり関係ないのであれば、このまま放っておくべきだろう。

 誰と誰が殺し合おうと、そもそも関係ない話なのだ。


「イグレシアス、俺は当分動けん」

「そのようだな」

「ミリーナのことはわかったが、これからどうするつもりだ?」

「……いずれ魔王が現れるだろう。その日に備えねばならぬ」

「そうか……」


 イグレシアスは椅子に座った。


「じつは、兆しがあった」

「……兆し?」


 イグレシアスは落ち着き払った顔でこう言った。


「私はもう長くはない」

「っ……! どういうことだ?」

「文字通りの意味さ。私が帰依している【赤銅竜】の寿命が尽きようとしている。このままなら私は彼奴とともに消滅するだろう……」

「…………」

「……ま、それが帰依した者の定め。しかし主従関係ではない。友として逝くのだから、後悔はない。ただ、心残りがある」

「……心残り、とは?」

「弟子だ」


 イグレシアスは窓の外を見た。


「私は今まで一人たりと弟子を鍛えなかった。魔法使いの役目……真理の探求に数十年を費やしたが、いまだにその門にすらたどり着けていない。それは、私がそれまでの人間だったということで納得がいく」

「イグレシアス……」

「だが、この研究の成果を誰にも遺さずに逝くのは、どうしても寂しいものがあってな。魔法の素養がある者にすべてを託したいと、そう望んでおるのだ」

「いないのか、弟子の候補は」


 イグレシアスは「いや」と首を横に振った。


「いる。私より、はるかに潜在能力の高いその者がこの地にいる」

「誰だ?」

「わからぬが、それもまた兆し。……見つけるさ。こんな子供の姿をした魔法使いに弟子入りしてくれるかはわからぬがな?」


 イグレシアスはそういうとふっと笑った。


 エクトルは、なんだかやりきれないところもあるが、イグレシアスが決めたことなのだから、それ以上なにも言うまいと思った。

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