第70話 しばしの別れ

 明け方、海賊船にカーヤがエクトルを迎えにくると、そこにミリーナもいた。カーヤは目元を覆っている布の下で小さく眉根を寄せると、いたく落ち着き払っている様子で、ミリーナを見た。


「昨夜のことですが——」

「ごめんなさい」


 ミリーナは先に謝った。


「神官様に対して不躾でした。どうかお許しを」

「……構いません。ですが、誰彼構わずあのような力の振る舞い方は、我が神、戦神アレスの逆鱗に触れるのだと覚えておくとよいでしょう。私は神官であり代行者。場合によっては、あの場であなたのことを殺めていたかもしれません」


 カーヤはそういうと、ミリーナのほうへ三歩ほど寄った。


「お怪我はありませんでしたか?」

「はい」

「わたくしはカーヤと申します」

「私はミリーナです」

「そう……ではミリーナさん、あなたの不可思議な力は神国(ここ)では封じておいてください。私は見てみぬふりをいたしますので——」


 そこでカーヤは目元を覆っている布をめくった。

 ミリーナははっとして驚いた。カーヤの目はつむられているのだが、その目の周りは火傷を負ったかのようなあとがあったのだ。


「カーヤ様は、もしかして……」

「ええ。わたくしはこの通り目が見えません。ですから、見てみぬふりという言葉はわたくしにはちょうどいい言い訳にできるのです」

「そんな……それなのにどうして……」


 目の見える者と同じ動きができるのかという疑問に対し、カーヤは目元の布を元に戻しながら答える。


「この世界は目で見えるものだけが全てではありません。音、臭い、肌を通して伝わってくる感覚……ありとあらゆる感覚と意思が、わたくしに様々なことを教えてくれます」

「……いつからですか?」

「生後間もないときに、不慮の事故で……ですが、そのことがきっかけで人よりも秀でた部分ができたのだと思います」

「……あなたに、私はどのように視えますか?」

「昨夜は荒ぶった狼のようでした。今は野ウサギのようです。……多少、気は晴れたようですね?」

「はい……」


 カーヤは微笑みをたたえた。


「あなただってそうではありませんか、ミリーナさん? 精霊の声が耳の奥で響くように、知らない事柄を次々と知る」

「でも……」

「ええ、それは不安なことなのでしょう。ですが、魔女になってはいけません。世の中の誰もがあなたを信じられなくても、あなたはあなた自信を信じるより道はありません」

「私は、私を……」

「戦神アレスは、孤独を孤高と教えています。唯一無二、あなたはあなた、ほかはほか……最後に信じられるのは自分自身なのだと、そう心に留めておいてください」


 そういうと、カーヤはエクトルを見た。


「ミリーナも連れていきたい、そういうことですか?」

「ああ」

「危険です。船に残ったほうが、ミリーナさんは安全かと」

「ここは海賊船さ」


 エクトルは可笑しそうに笑った。海賊船よりも神国のほうが危険だという皮肉は、けっして皮肉だけでは済まされないのだが、どこに行ってもミリーナは安全ではないという事実には変わりない。ならば、そばに置いておいたほうがまだ彼女を守れるのではないかという考えがあった。


 一方で、ミリーナの意思も尊重したいところだった。

 彼女の不安をやわらげるには、そばを離れないほうがいい。


「連れていきたい」

「……わかりました。では、二つ条件です。一つ、ミリーナさんと常に行動を共にすること。二つ、精霊に関するいっさいについて、けっして神国内では口に出さないこと」

「わかった。それと——」

「すみかは用意しました。こうなるとは思っておらず、二人では住みにくい場所かもしれませんが」

「助かる」


 ちょうど話し終わったところで、アイリスが船室から出てきた。


「話は終わったかい?」

「ああ」

「それじゃあ補給も終わったし、あたしらはあてがわれた島へ向かうよ。滞在は一週間ほどだが、それまでに戻らなかったら公国へ向かうよ」

「わかった」




 エクトルとミリーナを乗せた小舟が海賊船を離れると、威勢のいい掛け声とともに海賊船が帆を張った。


 海賊船、小舟、二つの距離がどんどん離れていく。

 それは、親と子が離れていくように、なんだか物悲しく、後戻りはできないという覚悟をエクトルたちにあたえたのだった。

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