第69話 抱えているもの

 深夜、ひと通り調査を終えてエクトルが海賊船に戻ると、ミリーナが出迎えた。その後ろにはアイリスも立っている。


「エクトル!」

「ミリーナ? ——っ⁉」


 エクトルは、急に正面から抱きつかれてまごついた。


「……どうした?」

「帰ってこないかと……」


 心配させたのだな、とエクトルは思った。ここまでの長旅で、ずいぶん心細い気持ちにさせたのかもしれないと頭をかきながら、エクトルは奥に立っていたアイリスを苦笑いで見る。


「危険なものに近づきすぎているって話だよ」


 アイリスが気をきかせていった。


「危険なもの、とは?」

「さぁね。その娘に訊いてくれ——」


 アイリスはそれだけいい残して船室へと引っ込んだ。


「ミリーナ、どういうことだい?」

「近づきすぎているの……なにか、なにかとっても危険なものに」


 ふとエクトルは思ったままのことを口にした。


「……精霊の声かい?」

「ええ……この胸騒ぎは、たぶん、そう……」


 ミリーナはエクトルの胸から顔を話した。


「私、どんどんおかしくなっているわ……」

「どうかな?」


 エクトルは冗談をいうつもりで微笑を浮かべた。


「君は会ったときから不思議な人だった。今も不思議に思うことがあるし——」

「そういうことじゃない……!」


 ミリーナは急に怒りだした。


「私は……なにか、なにか変なの! おかしいの! 急に、なにかを理解し始めて、自分ではない誰かの意思に引っ張られて行くのっ! ふざけている場合ではないの! このまま、私は消えて、私ではないものが残ってしまうかもしれないの……!」


 これまでの不安がどれだけ彼女を苛んだのか、エクトルは理解しようとしたが、言葉よりも先に身体が動いた。胸がズキンと痛んだのは、ミリーナの頭が胸にぶつかったからではなく、彼女の感傷がそのまま自分の胸の内へと流れ込んできたためだとエクトルは思った。


「不安な気持ちは、俺も一緒さ……」

「あなたにわかるはずがない!」

「どうして?」

「なにものにも捕らえられていないもの……飛ぼうと思えば飛べる鳥……ここから、一人でどこかへ行くことだってできるわ……」


 エクトルは、とっくに飛ぶ気力は失せたとミリーナに伝えようとした。すでに、自分の心はミリーナに捕らえられている。そのことを伝えようとして、口をつぐんだ。


 口に出せば、それで契約を交わしてしまうような、重たいものをミリーナに背負わせてしまうのではないか——そう思うと、彼女から流れてくる感傷を胸で受け止めるだけに留めておいたほうがいいのかもしれないと。


(俺は、ズルいのかもしれないな……)


 正面から向き合っているつもりで、本当は自分の心の逃げ場所を探している。ミリーナを完全に受け入れてしまえば、いよいよ心が脆くなってしまうだろう。


 そんな自分の心の弱さと、ミリーナに向けてやりたい優しさのあいだに立って、心がうろうろとどっちつかずな状態になっている。


 きっとこれが、ミリーナをずっと不安にさせている原因なのだと、自分の胸で泣きじゃくるミリーナの頭を撫でながら思った。


 それからいくぶんか経って、ようやくミリーナが離れた。


「……ごめんなさい」

「なにを謝ることが?」

「自分の不安をあなたに押しつけてしまったわ……」

「いいんだ」


 エクトルはそういうと、ミリーナを船室へといざなった。中に入ると、アイリスは起きたままで、窓の外をじっと眺めていた。アイリスはなにもいわずに、椅子へ座れと顎で伝えた。


 二人は椅子に腰掛けると、さっそくエクトルが口を開いた。


「ミリーナ、君に訊きたいことがあるんだ」

「なに?」

「カーヤに向けた、あの力……おそらくは精霊の力だね?」

「……ええ、そうよ」

「いつ、あんなのが使えるようになったんだい?」


 ミリーナはふと視線を落とす。


「わからない……なぜか急に理解し始めたの。つい最近覚えたのか、大昔から知っているのか、それすらも曖昧なのだけれど……」

「ふむ……」


 エクトルはじっと考えた。


「ミリーナ、君は港町でイザークという男に強襲された。死に際まで近づいて、精霊の力を発動させるに至った」

「覚えてないわ」

「ああ。だが、君の身体は精霊に乗っ取られた。君の中に、【銀の疾風(はやて)】という精霊が入り込み、君の身体を操ったんだ」

「それも、覚えていないわ……」

「その精霊は、君を【器】だといった。この言葉に聞き覚えは?」

「わからない……どれも初めて聞くことばかりよ」


 ミリーナは難しそうな顔をしていたが、ふと、そこでアイリスが口を開いた。


「アリシアの件は、それで助かったんだ」

「アリシアさん?」

「死んだんだよ。一度ね? でも、エルフだったからっていうのと、命を引き換えにしてくれた男がいたんだ」

「え?」

「たしか【反魂】の術とか法とかなんとか……それで、命をアリシアに引き渡したんだ」

「そう……」


 ミリーナはまた視線を落とした。

 エクトルとアイリスは互いに顔を合わせ、首を横に振りあった。


「……ひとまず、ミリーナの身に起きたことを話しておいたが、もしかするとそのときのことを思い出すかもしれない。そうしたら、俺にまた教えてもらえないだろうか?」

「わかった」


 ミリーナは小さく頷くと、「はぁ」とため息をもらした。


「どうして、こう、ままならないのかしら……自分だけで物事がおさまったらいいのに、こうして、あなたやアイリスさん、みんなに迷惑をかけっぱなしなのね……」

「その通りさ」


 と、アイリスが再び口を開いた。


「そう思うんだったら、はやく自分のことは自分でなんとかできるようになりな」

「わかっているわ……」

「いいや、わかっちゃいないね。覚悟は頭で決めるもんじゃない。腹で決めるもんさ。あんたは賢いのかもしれないが、いまいち、自分というものに強い自信があるのを感じられない」

「…………」

「不安は誰の中にでもあるものなんだよ。それを今はそこのエクトルが受け止めてくれているが、エクトルだっていつ倒れるかわかったもんじゃない」

「そう、よね……」


 アイリスもまたため息を漏らした。


「今後の身の振り方も考えるべきだね。甘ったるいことを考えたりしていないで、これから先、自分のことをどうするかきちんと考えな」


 アイリスのいい方には厳しいものがあったが、しかしそのとおりだとミリーナもエクトルも納得していた。


 この先のこと——それがこの不安の大きな原因なのだが、だからこそ意志を強く持て。


 アイリスの厳しさの陰にあるものは、きちんとミリーナに伝わっていた。

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