第67話 魔女の力

 青い月が水面に映った。静かな夜である。

 エクトルは船室のアリシアのもとを訊ねた。先に来ていたミリーナは、エクトルと小さく目配せをしたあと、静かに出ていった。ミリーナはあまりいい顔をしていなかった。


 アリシアは窓から見える丸い景色を眺めて、こちらを向こうとはしない。

 エクトルは小さく息を吐いて、さっきまでミリーナが座っていた椅子に腰掛けた。


「……調子は?」

「いいように見えるか?」


 アリシアは、沈んだような、冷たい声でいった。


「脚が動かないんだって? イザークに腰をやられて——」

「なぜ助けた!」


 急にアリシアの声が、エクトルに辛くあたるように響いた。


「あの場で死んでいたら、私は……アイリス姉さんの足かせにはならなかった!」

「…………」

「こんな脚で……あのまま、あの町に捨てておいてくれたら良かったのに……」


 エクトルにもいろいろ言い分はあったが、おそらく、今なにを言ったところで、彼女を傷つける結果にしかならないと思った。

 ただ、なぜと聞かれたことに対しては、真摯に返そうと思った。


「アイリスに頼まれた、ただそれだけだ」

「ただ、それだけ……?」

「ああ。それだけだ。結果的には君を助けてしまったことには変わりない。すまない……」


 エクトルはそれだけ言うと、そっと立ち上がった。


「ただ、一つだけその脚を治す方法がこの神国にある」

「…………」

「エリクシールだ」

「……は?」


 なんの話をするのかと思いきや、拍子抜けだといった感じで、アリシアはエクトルのほうを向いた。


「エリクシール……六柱の神の加護がかかった、どんな怪我や万病を治すという薬が、この神国にあると聞く」

「そんなもの、あるわけないだろ……」

「見てもないのにないと結論づけるのは早い」

「いいや、ない!」


 アイリスは、立ち上がるような勢いで、エクトルにどなりつけた。

 エクトルは、今度こそなにも言うまいと思って、そっと部屋をあとにした。




  † † †




(——希望を持たせるようなことを言ってしまったか……)


 大きな失敗をしたなとエクトルは反省したように、夜空を見上げた。

 煌々と光る星と星、青い月——それらが同じ場所から見下ろしている。


 こんな日は奇襲に向かないために、たまたまエクトルの目に入った小舟がこちらにやってくるのを知っても、どうせ補給かなにかだろうくらいにしか思っていなかった。


 けれど、エクトルの目は、つい数時間前に会ったカーヤをとらえた。


「カーヤ……?」


 同じ日に二度——どうしてと思う前に、船頭が船を海賊船の横につけた。カーヤは軽くその場を踏むと、スッと空高く舞い上がり、エクトルのすぐそばに立った。


「どうした?」

「三人目が……」

「また穏健派の?」

「はい……。不覚でした……。護衛の者を忍ばせていたというのに——」


 カーヤはそっと落ち込むように視線を下げた。


「……護衛の者たちは殺されました」

「やはり、何者かが?」

「吐い、その可能性は——」


 次の瞬間、カーヤはばっと後ろを向いた。

 するとそこに、ミリーナが無表情で突っ立っていた。


「ミリーナ、どうした?」

「こそこそと夜のお散歩? ううん、そちらの方は神官様ね? でも、変……あなたからはエクトルと同じものを感じるわ」


 ミリーナがそう言うと、カーヤはいったん冷静になって、ミリーナのほうを向き直した。


「失礼。わたくしはカーヤと申します」

「私はミリーナ。魔女と呼ばれているわ」

「魔女……」

「あなたと相対する存在ね?」


 どうしてそんな意地悪な言い方をするのだろうか。

 エクトルは、ため息をつきたいのを我慢して、二人の様子を窺う。


「エクトルとは古い付き合いなの?」

「いえ、過去に数ヶ月ほど行動をともにしただけです」

「あなたはなぜ神国に?」

「亡命者です。わたくしは二年前のクーデターの際に、反政府側の人間でした。その後、逃げおおせたこの国で、神官になりました」


 ミリーナはおもしろくなさそうにため息をついた。


「……元暗殺者?」

「違います。わたくしは人を殺めたことはありますが、そういうたぐいの者ではありません」

「そう……」

「ミリーナ、わたくしはあなたの敵ではありません」

「どうかな?」


 するとミリーナのエメラルドの目が、怪しく光り輝いた。とたんに、ぶわりとミリーナの足元から風が起こった。


「ミリーナ……⁉」


 魔法かと思われたが、その風がなんなのか、エクトルはすぐに理解した。


(使いこなしている……⁉)


 風の精霊だ。いつ、なぜ——彼女はどこでそんな力の使い方を教わったのか。

 エクトルは動揺しつつも、「よせっ!」と怒鳴った。


「これが魔女の力。厄災をもたらす者の正体よ」


 ミリーナが言い放つと、カーヤは「ふぅ」と息をはいた。


「……なっておりませんね」

「え?」


 ミリーナが首を傾げた瞬間——




 ——ヒュン……




 カーヤの姿が消えたと思ったら、一瞬にしてミリーナの懐に飛び込んでいた。


「えっ……⁉」


 ミリーナの目に飛び込んできたのはカーヤの手刀。


 手刀——エクトルが知る限り一番脆い技だ。指の骨や筋肉、関節、どれも身体の部位の中ではひどく脆い。そんな技を素人が扱ったとて、怪我をすることは当たり前だ。


 けれど、カーヤは違う。

 鍛え抜かれた彼女の身体は、どこをとっても凶器となりえる。


 たとえば手刀——彼女の指先は、今鋭利な刃物と同じように、その気になれば身体を突き通すほどの武器になっている。


 そしてなによりも、この殺気。

 さっきまでのおだやかな雰囲気とは違って、明らかに殺す勢いだ。


「敵を前にしたのなら、容赦なく放ちなさい。さもなくば——」

「ひぃっ⁉ ……——」




 ——トン。




 殺気が急に収まったと思ったら、カーヤは手刀でミリーナの首を打ち、気絶させた。

 甲板に倒れかかったミリーナをガサッと受け止めると、壁際にそっと寝かせる。


「すまない、カーヤ」

「いいえ。この娘は、明らかに気が立っていました。何度も命を狙われ、おまけにこの長い船旅で、心労が続いていたのでしょう」

「…………」

「そういう心の難しい部分をなんとかするのも、護衛の務めなのですよ、エクトル」


 エクトルは思わず苦笑いを浮かべた。

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