第三部 神の嗤う国

第五章 カーヤ

第64話 どう生きるか……

 朝の海霧の向こうに、丘や建物が見えてきた。先頭の海賊船に乗っていた町の若者が大声で、


「神国だっ!」


 と叫ぶと、デッキに出ていた人たちの目に希望がやどった。


 海賊船の船団七隻は沖に碇を沈めると、アイリスを含めた護衛の海賊数人と、町を任せていた町長とともに、小舟で難民受け入れの交渉に向かった。

 小舟が出たのを甲板から眺めていたエクトルは、口の中で小さくつぶやいた。


「……何事もなければいいんだが」


 エクトルのかたわらにいたミリーナは、静かに目蓋を閉じた。


「ここがダメならどうする気なのかしら……」


 神国は、難民の受け入れには慈悲をもって行う国だとエクトルは聞き及んでいる。ただし、二つの条件があり、一つは神国が崇めている神々に帰依すること。もう一つがさらに問題だった。


「海賊はダメだろうな」

「罪を背負っているから?」

「いいや、他国との兼ね合いだ。神国が海賊を受け入れたとなれば、今まで海賊に被害を受けた国が黙っちゃいないだろう」

「また、争いが起きてしまうの?」

「そうしないための交渉さ。最悪、町人だけを受け入れてもらって、海賊や罪人は次の場所に向かうだろうな」


 ミリーナは自嘲するかのように、ふっと笑った。


「……罪のない人間などいないのにね」


 その言葉を聞いて、エクトルはイザークの言葉を思い出した。




『罪のない人間がこの世にいますかっ⁉ 人は生まれたことが罪なのですっ! 善行をしたとて、生まれてきた罪は一生消えない!』




 あの言葉は、ある意味で真理をついていた。人は生きている限り罪を犯し続ける。人間のつくった法というのは、人間に、それも一部の人間にとって都合よくつくられたものだ。生きるために食わなければならないが、そのために魚や動物を殺す罪は、人間社会では許されている。生きるためにはしかたがないといって、食らったり殺したりするのが人間以外であるならばいいというのは、人間が勝手に考えたものだ。


 しかし、生まれたことが罪というイザークの言は、ある意味で正しくて、ある意味で間違っているとエクトルは思っている。


「だからだよ、ミリーナ。どう生きるかが肝心なんだ」

「え?」

「俺のような人間は、この先、たぶんロクな死に方をしないだろう。必要以上の悪事を行ってきたのだから、今さら赦されるとは思っていない。だが、君や、この船に乗っている町人たちのほとんどは違う。俺に比べれば少量の罪で赦される。罪には大小の大きさがあるんだ」

「だから、なんなの?」

「みんな救いを求めている。神国の神々に帰依するというのは、つまりそういうことさ。少しでも救われたいから神にひざまずくんだ」


 ミリーナは眉を潜め、押し黙るようにして口を閉ざした。


 エクトルには、ミリーナの言いたいことがわかった。

 自分が魔女なら、その罪が赦されることなどぜったいにありえないと、そういいたかったのだろう。


 エクトルはため息を吐きつつ、遠くにそびえ立つ神国の宮殿を眺めた。


 神国は六柱の神々に守られた国だという。

 規模は王国の三分の一くらいしかないが、建国からおよそ千年ものあいだ、どの国に支配されたこともなく、内乱すら起きたことのない不思議な国だ。神秘が根付いているというよりは、歴代の法王が人格者で、そこに暮らす民が、平和で豊かな生活を送ってきたからだろう。


 受け入れられた難民は、神国の西側の開拓を任せられ、そこに居住する許可を得ることができた。神国が全面的に生活を補助し、そうしてできた村や町は、豊穣な大地の恵みを受けて、静かに、平和でおだやかな暮らしを約束された。


 そうして長きに渡り繁栄を築いてきた神国は、自主自律の姿勢で諸外国との外交にあたっていた。


(ここなら、ミリーナがおだやかに暮らすのもいいかもしれないな……)


 ただ、その前にやることがあった。ミリーナの懸念の払拭である。彼女が魔女かどうかは正直わからない。


 ミリーナの中に入った、あの『銀の疾風(はやて)』という精霊は、ミリーナを【器】と呼んだ。【器】とはなんなのか、エクトルはそれ自体も気になっていた。


「ミリーナ、体調はどうだ?」


 エクトルは、ミリーナを気づかうというよりは、確認のために訊ねた。


「いいわ。それも、すごく」

「そうか、ならよかった」

「エクトル、誤魔化さないで」

「……? なにをだい?」

「あなたは私を恐れているように感じる。どうして本当のことを教えてくれないの?」

「……本当のこととは?」

「わからないから訊ねているの……」


 エクトルは眉根を寄せて閉口したが、内心ではいうべきか迷った。


 精霊がミリーナという【器】をかりて話しかけてきた——そのことを彼女に伝えるべきかどうか、エクトルは踏ん切りがつかないでいたのである。

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