第63話 どこへ向かうのか

「——……っ……ううっ……」


 アリシアは波の音で目覚めた。


 身体が揺れる。

 ここは海の上、船の中か。


 朝ぼらけの空の明かりが、船室のベッドに柔らかく下りている。いったい、なにがどうなって、とアリシアは思考を巡らせるが、腰に激しい痛みがはしって顔をしかめた。


 すると船室の扉が開き、


「アリシア、起きたのかいっ……⁉」


 と、急にアイリスの心配した顔が飛び込んできた。


「……姉さん?」

「ああ……良かった……! 良かった……」


 アイリスはベッドのそばでひざまずき、アリシアの手を握った。


「たしか、私はあのとき……」

「なにも言わなくていい……今はゆっくり休みな」

「姉さん……」

「なんだい?」

「私の脚が、動かないの……——」




  † † †




 ミリーナは、甲板に出て海風に当たっていた。船に乗ったのも初めてで、最初の二、三日は船酔いに悩まされたが、四日目の今日はこの揺れにもすっかり慣れていた。


 見渡す限り海だ。船の速度が遅いのか速いのかわからないが、進んでいることは確かなのだろう。この先になにがあるのかわからないが、不思議と不安や気持ちの高揚もなく、ただ船の浮き沈みに合わせて、正面ばかりを向いていた。


 するとそこに、エクトルがやってきた。


「あまり海風に当たらないほうがいい」

「こうしていると気分が安らぐの」

「身体が冷えて病気になるかもしれない」

「……いいえ、そうはならないわ。そうならないと、なんとなくわかるの」

「どうしてだい?」

「……どうしてだろう」


 ミリーナは、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。彼女が元に戻ってから、よくそういう顔をするようになった。以前の活発な明るさはなく、落ち着いた、物静かな女になった。


 エクトルはそのことが不安だった。人ではないもの、銀の疾風(はやて)と名乗った精霊がミリーナの中に入ってからずっとこの調子だ。イザークという暗殺者に毒を打ち込まれたせいかとも思った。


 船旅が始まって四日。

 やはりミリーナの調子は以前のように戻っていない——。


「エクトル」

「ん? なんだ?」

「私が毒を受けたあと、なにがあったの?」

「なにが、とは……?」

「船に乗るまでの記憶がないの。起きたら船の中、海の上。あれからどうなったか、まったく……」

「仕方がないさ。君はずっと毒と戦っていたんだ」


 エクトルはそれとなくはぐらかしておいたが、ミリーナもなにか引っかかるところがあるのか、納得する様子はない。


「毒はすっかり引いたわ」

「薬が効いたんだろう」

「傷もない。変よ……私は何度も刺されたのに、傷口すらない。たった数日のあいだに癒えてしまうなんて、おかしいわ」


 エクトルはミリーナのそばに立った。


「……不安なのかい?」

「混乱しているの」

「どうして?」

「自分が、自分ではないものに変わっていくような気がして……」


 甲板の手すりに顔を埋めたミリーナは、腕のあいだから「はぁ」と息をこぼした。


「私があの町を焼き滅ぼした……村のときもそう。関係のない人たちが巻き込まれてしまったわ」

「君のせいではない」

「私のせいだと思うの」


 ミリーナは目蓋を閉じた。


「私は、きっと魔女。行く先々に災いをもたらす、災厄という名の魔女よ」


 自らを卑下するようにいったが、エクトルはそっとこう呟いた。


「ミリーナは、ミリーナだ」


 ミリーナの目蓋が開く。


「気休めはよして」

「今のは君にいったんじゃないよ。俺自身にさ」

「え?」

「正直、君が魔女なのか、あるいはそれ以外のなにかなのかはわからない。俺はかつて暗殺者、今は一介の物書きさ。人をどうこういう立場ではないよ」


 そういって、屈託のない微笑を浮かべる。


「ただ、自分が何者かは自分で決めるべきだと思う。君が自分を魔女だと認めるならそれでもいい。でも、それが嫌なら、そうじゃないと否定するのは君の意思によるものさ」


 ミリーナは「そうね」といって、また遠くを眺めた。


「……もう少し、考えてみる」


 エクトルは、静かに彼女のそばを離れた。


 甲板には何人もの人が出ている。海賊ではなく、火災から逃げてきた女子供や老人だ。大人たちが希望を失った目をしているというのに、子供は無邪気で、船が揺れるのを面白そうにしている。


 その様子を見ながら、エクトルはふと真面目な顔になった。


 このまま船は海を渡り、神国へと向かうらしい。

 旅の目的だった、知り合いの魔法使いに会いに行くことはできないが、ひとまずはこの船や、先に行く船団に乗った人たちを下ろさなければならない。


 エクトル自身も、考えなければならないことは山ほどある。大いに狂った予定をこれから修正することはもう叶わない。それでもミリーナのことをなんとかしてやらねばという使命感に駆り立てられる。


(俺も、自分ではないなにかに変わっていくようだな……)


 ミリーナには言わなかったが、イザークから受けた傷がすでに癒えていた。ありえないことだ。もしこの身体の変化がミリーナに関係しているのだとすれば、この身はすでにミリーナとともにある。


(俺たちは、どこへ向かっているんだろう——)


 そのときエクトルは、生まれてきて初めて迷子になった気分を味わった気がした。

 振り向くと、まだどこか遠くを見ているミリーナの姿があった。

 



『君じゃない。旅人のエクトル、わたくしは導き手のミリーナ。よろしくね?』




 そういって、にっこりと微笑んだミリーナの姿はもうない。

 エクトルは、ため息の代わりに鼻から息を放った。


(ま、なるようにしかならない、か……)



  ——《第四章 イザーク 完》




***********


第4章はここで終わりです。

次回から第5章に入りますが、同時に第1章〜現在までの部分の改稿を行っていきます。


今後も応援のほどよろしくお願いいたします。

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