第61話 最期くらいは
現れたのは、毒が回って瀕死だったはずのミリーナだった。
ところが、様子が怪しい。表情は堅く引き締まり、全身から白い光を放っている。それどころか、ミリーナのつま先の下は地面から拳一つ分ほどに浮いていた。
そしてこの上から降りかかるなにかの圧——エクトルはひざまずきながら魔法かと思ったが、エクトルの知っている魔法とは根本からなにかが違う。知らないだけで、こういう魔法もあるのだろうか。わからない。わからないが、身体の上になにか重りを背負っているかのようで、少しも動けない。
そして、ミリーナとは思えない冷たい視線に口調——先ほどは銀の疾風(はやて)と名乗り、戦場に吹く風の精霊ともいった。
(ミリーナの身体に精霊が宿ったとでもいうのか……⁉)
果たして、ミリーナがエクトルの方を向いて、静かに口を開いた。
『——問う。この【器(うつわ)】を守り抜いた騎士よ、此度(こたび)の戦(いくさ)で妾の眷属が疾走(はし)ったが、アレは役に立ったか?』
眷属……あの雄牛の角を生やした女のことか。
エクトルは「ああ」といっておいたが、器、騎士という言葉が引っかかった。しかし、問い返す余裕もなく、下から睨めつけるようにして、ミリーナの冷たい目を見た。
『ならば良い。この【器】の守護を任せたが、【器】自体が未熟ゆえ、此度の戦にて力を使いすぎた。当座は使えん。その間の守護は騎士であるそなたが務めるがいい』
銀の疾風といったか。
この段階で出てきて、なにをわけのわからないことをいい始めたのか。
(そもそも、なんで出てきた……⁉)
いっていることがチンプンカンプンで、エクトルは自分の感情と理性のはざまで、苛立ちを覚えていた。いうにおよばず、ミリーナではなく、ミリーナを【器】をいっている、彼女の中の精霊に対してである。
立ち上がってやろうと、グッと歯を食いしばり、膝に力を入れた。だからといってなにかをするわけではないものの、この体勢のまま見下されたようにいわれるのは釈然としない。エクトルの中にあるものは、使われることにたいする反感だった。
すると、この重みがかかっていないのか、アイリスがすくっと立ち上がる。
「あんた、精霊だと言ったな?」
『そうだ』
「神秘の力を使えるなら……この子をなんとかしてほしいっ……」
アイリスの足元で、アリシアは静かに横たわっていた。
『無駄だ。すでに事切れておる』
「それでもっ……!」
アイリスは言葉につまった。
「それでも……お願いしたいんだよ……っ! あたしらちっぽけな人間は、あんたのようなやつにすがるしかないのさっ……!」
ミリーナはそっとアリシアを見た。
『ふむ……エルフか』
そういって少し考える素振りを見せた。
『ならば方法がないわけではない』
「え……?」
『女、魂を差し出すか?』
その場の全員がはっとした。その言葉の意味を理解できない者はいなかった。
「あたしの命と引き換えに、この子を助けてもらえるのかい……?」
『その通りだ。エルフの身体は我が力と相性がいい。ならば【反魂】の術で他者の魂を引き換えに蘇らせることができる』
ミリーナは淡々といった。
けれど、それほど簡単なことではないと、エクトルも、中年男も、そしてアイリス自身もわかり、躊躇した。ただ、アイリスの腹はすぐに決まった。
「それでこの子が助かるなら……この命、差し出してやるよっ!」
『いいだろう。そのエルフのそばで横になるといい——』
アイリスはいわれたままにアリシアのそばに横になろうとしたのだが、そのとき——
「待てっ!」
エクトルは声のするほうを見た。
自分と同じく、重さに耐えていた中年男が口を開いたのだ。
「ならば俺の魂を使え……」
「おい、あんた……⁉」
止めるべきだろう。止めるべきだ。それなのに、なぜ俺は躊躇している——エクトルは口がうまく回らないことに焦りを覚えた。
けれど、中年男の表情が、ふっと苦笑いに近い笑みに変わる。そうして、アイリスを見た。
「一つ……俺の女房と子供は……?」
アイリスははっとした顔をした。
「……レェルのことかい?」
「そうだ……」
「あの子なら船に乗った……」
「そうか……」
すべてをいわなくても、中年男にはわかった。最愛の妻は、きっと……レェルを守りきって先に逝ったのだろうと。
強い女だった。
だから惚れたのだが、最期まで信念を貫いてくれた。
毒の回ってしまったこの身体はもう保たない。レェルを一人にしてしまうが、妻の血を引いている子なら大丈夫だろう——。
中年男に迷いはなかった。
「俺だ。俺の魂を使え……!」
エクトルは「いけない」とわずかに口を開いた。
「娘はどうする⁉ あんたがいなくなったら——」
中年男はふっと笑った。
「元より、俺たち暗殺者は存在してはならぬのだ」
「っ……」
「多くの者を手にかけた。これでチャラになるなどと甘いことは、ゆめゆめ思わないが……」
中年男は最後に残る一隻を見て、穏やかな表情を浮かべた。
「最期くらいは、娘に誇れる父でありたい——」
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