第58話 二つの使命

 エクトルは娼館を出て、再び人々が逃げ惑う町に出た。


 夜風で火のめぐりが早いと見えて、このままだと本当に町一つが消滅してしまうだろう。その前に、なんとしてでも果たさなければならぬ約束がある。


(どこにいる……⁉)


 殺気を追ったが、あちこちに人の駆け巡る気配があって、うまく追うことができない。こうなればそこらじゅうを探すしかないか。西か、東か——と、そのときである。




 ヒューーー……




 一迅の風が背後から通り過ぎたのだが、明らかに違和感があった。


 不思議な風だ。

 風の向きが違う。

 背中を押し、どこかへ導くような、そういうなんともいえないまとわりつくような風だった。


 そして、その風は周囲の煙や火の粉を払った。

 これほどの火災が起きているのにもかかわらず、熱さも感じない。


(この風、まさか……ミリーナが?)


 馬鹿な、とは思ったが、自然にその方向へ脚が向いていた。

 風が過ぎ去ったほうへ走る。

 脚が軽い。もっと速く——いける!


 エクトルは追い風を背に受けたまま、そちらへと向かうと、かすかに殺気らしきものを感じた。


(——これか!)


 位置、方角はだいたいわかった。

 エクトルがそちらへまっすぐに進むと——


「おい!」


 と、急に声をかけられた。


 その人物は、名も知らない中年の暗殺者。どうやら森での囲みを突破してここまでこぎつけたらしい。


 彼はエクトルに合わせて、並走する。


「俺の妻と娘は?」

「すまない、この混乱で——だが、海賊たちに探させている」

「そんな連中、信用できるのか?」

「ああ。少なくとも義理を通す連中だ。」

「……それでお前はどうする? ——っ⁉」


 そこで二人の足が急に止まった。


「このおぞましい気配……」

「六人のうちの一人だろう……」

「しかし、この気配は——」

「ああ……俺たちよりも遥かに殺し馴れているやつだ」


 二人は眉根を寄せた。


 この先に、この殺気を垂れ流しているやつがいる。それにしてもなんとおぞましい殺気か。これまで幾人もの殺人者を見てきたが、これほどまでに純粋な狂気を孕んだ殺気を感じ取るのは、二人もはじめてのことだった。


「……入り口の死体の山を見たが、あれをやらせた親玉か?」


 男の顔がいっそう険しくなった。


「ああ、間違いないだろう……悪いが、俺の手だけは足りん。俺が親玉を叩くから、あんたは町に潜伏している黒ずくめどもを倒してくれ」

「いいや、妻と娘が優先だ」

「ああ、それでもいい。探すついででいいから、もし見かけたら——」


 男はコクンと頷くと、べつの方向へ走り出した。

 エクトルもおぞましい殺気のあるほうへと駆け出す。


(残りの黒ずくめはあの男に任せておいたから大丈夫だろう。しかし——)


 たくさんの者が死んだ、殺された。

 このあとも何人もの人間が死ぬだろう。

 その内の一人にアリシアは含まれるだろうか。


 アイリスは諦めていた。アリシアが生きていることを望んでいるだろうが、おそらくは望みは薄い。いかに優れた能力を持ったエルフでも、暗殺者相手では分が悪い。


 対人戦では暗殺者は無能だろうと評価する者がいる。

 陰に隠れてこそこそと仕事をするのが暗殺者だと——そうではない。


 そもそも暗殺者は人殺しの専門家なのだ。騎士のような高潔さはなく、剣士のような自尊心もなく、弓使いのような洗練さもない。ただ殺すことだけを高めた存在が、いかに対人戦で相手の領分をわきまえないかをエクトルは知っている。


 それに——こんな派手なことをしでかすやつだが、そのじつは巧妙だ。暗殺者もどきを指揮し、組織で街を火の海と死体の山にした。やり口は気に食わないが、効率よく手っ取り早いやり方を心得ている。余裕すら窺えるのだから忌々しい。


(その気配すら今まで感じられなかったのだから、同じ暗殺者というのはこうも厄介なものか。親玉が味方を連れていたら、俺は死ぬかもしれないな……)


 最期になるかもしれないが、務めは果たさねばならぬ——。


 エクトルは己の使命を二つに絞った。

 やることは二つ。


 一つ、町の人々を逃がす時間を稼ぐこと。

 一つ、アリシアをどんなかたちであれ見つけ出し、アイリスの元へ返すこと。


 自分が生き残ることは入れない。

 そんな余裕はないだろうと判断してのことだった。


 後者は反故になってしまうかもしれない約束だが——刺し違えても、たとえ先に倒れたとしても、この町の人々を、ミリーナを逃がすための時間を稼ぐことだけは果たそうと、そう思った。

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