第57話 海賊との約束

「いくら客人でも、これ以上の面倒事はごめんだよ」

「わかっているさ。……ミリーナを連れて、船へ向かってくれ」


 ——エクトルがイザークの元に向かう前。エクトルとアイリスとあいだで、こんな会話が交わされていた。


「いいや、お断りだね。金は返す。まったく……とんでもない話さ。この魔女が厄災をこの町に連れてきたのさっ!」


 アイリスが吐き捨てるようにいうと、エクトルのほうは反駁もなく、ただ静かにミリーナを見た。先ほどのうなされていた状態がまるで嘘だったかのように、ミリーナは安らかに寝息を立てている。すっかり体内の毒が抜けてしまったのだろうか。その前に、さっきの風はなんだったのか——あの雄牛のような角の生えた女は……。


 魔女かもしれない。


 そうであるならば、この町に厄災をもたらしたのはミリーナなのかもしれない。

 そうであるならば、アイリスの言葉になんの反論もできないとエクトルは思った。


 ただ、これが心の内のおかしな情動か、あるいは懐柔されしまった弱い心がそう語りかけてくるのかはわからないが、エクトルの頭の中は、ミリーナは違う、といっていた。


 ——俺は……絆されたのだな。


 エクトルは諦めたように息を吐き、静かに口を開いた。


「……では、別件を頼みたい」

「なんだい? またなにか面倒かい?」

「ああ、多少は……この二、三日のあいだに町に入ってきた旅の夫婦と娘がいる。知っているか?」

「私に知らないことはないさ。宿屋に泊まっていると聞いたよ」

「安心した。ならば話が早い。そこに泊まっていた母子を一緒に連れて逃げてほしい」


 アイリスは窓の外を見た。

 向かいの建物が、赤からオレンジの、炎の揺らめきが映っている。そこに黒い影が左右へ慌ただしく動き、たまに悲鳴が上がり、人々が逃げている姿が用意に想像でした。


「……生きてるのかい?」

「わからん。確証はないが、もし会うことができたら船に乗せてやってほしい」


 エクトルは部屋にあった、金と金目のものをすべてアイリスの前に出した。


「出せるのはこれが全部だ」

「あんた、馬鹿なのかい⁉」


 いよいよアイリスは苛立った。


「そんな約束、あたしらが反故にしないとでも思っているのかい⁉ その金を持って逃げるだけだよ! その母子を救う義理なんて、あたしらにはこれっぽっちもないねっ!」


 エクトルはふっと声に出ない笑いを浮かべた。


「わかっている。だからこれは気休めだ」

「は? 気休め?」

「墓場までは金は持っていけぬ。……ならば、最後に贅沢な望みをすべてあんたに託し、これをもって、心置きなく戦いに望みたいのさ」

「戦い?」


 エクトルの目に怒りが宿った。


「アリシアが追っている相手……そいつを殺しに行く」

「ミリーナの意趣返しかい?」

「いいや、この町のだ」

「あんたにそんな義理はないはずさね!」

「いいや、ある」


 エクトルは強くいった。


「この町にミリーナを連れてきたのは俺……ならば、その責任を果たすのも俺だ。己の命をかけてでも、あんたらや町の人たちが逃げる時間を稼ぐ。それが俺の払える全部だ」

「あんた……」


 つくづく馬鹿だ、とアイリスは思ったが、あまりにも馬鹿馬鹿しいために言葉を失ってしまった。そもそも、魔女を連れて旅をする義理だって、この男にはないはずだ。それなのに、自らを犠牲にするようにして、命がけでここまでたどり着いたのはなにゆえか。


 この男は馬鹿だ。

 相当おかしな男だ。

 そもそも暗殺者なのだから、頭がおかしいか——。


 それなのに、どうしてこれほどまでに、強く、美しい目をしているのか。

 アイリスは、もうこれ以上はなにもいうまい、考えまいと思い、「チッ」と舌打ちをして、子分の海賊どもを呼んだ。すぐに七人ばかりがやってくると、アイリスは怒鳴るようにいった。


「いいかい、この娘を丁重に船まで運びな!

 手が空いてるもんは、けが人や女子供を優先して船に連れて行くんだっ!

 それと、宿に泊まっていた母子を見つけて保護しな!

 死んじまってたら髪の一房だけ持ってきなっ!」


 使命を帯びた海賊どもは散り散りになって、その役割を遂行しはじめた。


「アイリス、すまない……」

「いいや、これは取引さ。海賊と馬鹿な男のね」

「……条件はなんだ?」


 アイリスは、ぐっと奥歯を噛んだあと、力なく項垂れていった。


「アリシアを、私のもとへ返してくれ。それが条件さ……頼んだよ」

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