第55話 生まれたことが罪

「現れましたか。エクト——……っ⁉」


 なんの躊躇いもなく、エクトルから仕掛けた。

 ダガーの刃が一瞬にしてイザークの手首に迫る。

 が、イザークはこれをかわし、後ろに大きく跳ねた。


 そこからエクトルの追撃が始まる。イザークが移動した先に瞬時に現れ、体勢が整う前にダガーを振るう。


 なんとかかわしていたイザークだが、五度目の追撃でいよいよ捕まり、左手首の外側にスッパリと切り傷がついた。


 そうして六度目の追撃——エクトルが畳み掛けるようにしてダガーを振るおうとすると、目の前に小さな黒い鉄の球体が現れ、弾けた。——火薬玉だ。


「チッ……」


 目くらましに使われたのだとすぐに思ったが、イザークの姿はすでに消えていた。気配を追うと、まだ焼けていない建物の屋根にいた。


「なんて無礼な人……まだ互いに名乗ってすらいないじゃないですか?」


 イザークの声に怒りはなかった。それどころか、斬れた左手首からツツッと垂れた自分の血をベロンと長い舌で舐めて、ニヤリと笑う。


 不気味だ。なにがそんなに愉しいのだろうか。

 エクトルはチラッとアリシアを見る。見るからにひどい状態だ。あのまま放っておけば、いずれ死ぬだろう。まして、この炎と煙……あまり長くは持つまい。


 エクトルは再びイザークを見た。

 まるでこの地獄絵図の中で、優雅に散歩をするかのように、屋根の上を歩く。あの男がこの町を、アリシアを、そしてミリーナを……——。


 エクトルの思考が心の暗いとこへ沈んでいく。

 深淵の闇の底には、得体の知れない獣が住み着いている。

 あの男を殺せ、殺せと、抑えきれない衝動にかられそうになったが、エクトルはぐっと胸に力を入れて、なんとか理性を保った。


「貴様は六人の一人か?」

「いかにも。私はイザーク。あなたは……エクトルと名乗っているようですね?」

「名前などどうでもいい。貴様が六人の一人とわかったら十分だ」

「つれない人だ……」


 イザークは、やれやれと呆れたように首を振るった。


「我々は滅多に顔を合わせる機会がありません。それぞれがべつの目的で動き、長きに渡りこの国を裏側から守ってきました。そんな同志にこうして会えて、歓喜に酔いしれたいのに、互いを名前で呼び合えないのは寂しいものがあります……」


 イザークはわざとらしく、寂しそうに自分の身体を抱くような仕草をする。


「エクトル、あなたはどうして私をそんな嫌悪の目で見るのですか? 我々は同志、本来ならあなたはこちら側の人間のはずだ……。そんな仕打ちのように睨まれては、かえってあなたの底が知れたようなもの。なんと心が狭いのか……。魔女を守って逃げているあいだに、騎士の心が芽生えたとでも? ああ、ああ、嘆かわしい……おかわいそうに……」

「黙れ!」


 と、エクトルは低く怒鳴った。


「貴様のいう通りだ。俺もそちら側の人間、けしてまっとうな人間ではない——」


 エクトルは大きく息を吐くと、体勢を思い切り低くした。


「だが、矜持はある。いかに人に蔑まれようと、曲げてはいけないものがある……」

「なんですか、それは?」

「……最後に一つ問う。なぜ火をかけて、罪のない女子供までを殺した?」

「罪のない……? あはははははははははっ!」


 イザークは大笑いした。


「罪のない人間がこの世にいますかっ⁉ 人は生まれたことが罪なのですっ! 善行をしたとて、生まれてきた罪は一生消えない! ——だから……」


 イザークは再びうっとりとした表情を浮かべた。


「私が殺して差し上げるのですよ。その罪、私が引き受けるつもりで」

「……それが本心か?」

「ええ、まあ、そうですねぇ〜……——」


 イザークは多少考える素振りをしてから、ニヤリと口の端を上げた。




「——愉しいからですね」




 エクトルの目に怒りが宿った。




「もう十分だ——」




 シュン、と同時に二つの影が消える。

 途端にキン、キンと、金属同士が激しくぶつかり合う音が響く。


 その音を聞きながら、アリシアは天上を見つめ、わずかに息を吸って吐く。息に血の泡が交じる。そう長くはないと、自分でもわかった。


(それにしても……)


 音だけでわかる。

 怒りと悲しみを背負った男と、喜びと愉悦に酔いしれた男が命を奪い合っていると——。


 しかし、二つの音はどちらも澄んでいた。

 正しい、正しくないはそこになく、ただ純粋な殺意が二つ。それはある種の美しさのようなものをアリシアに感じさせた。


 互いに道は違えど、矜持があるのだろう。

 あのイザークという男ですら、非道と狂気の中に、自分では理解が及ばぬほどの、他者を殺すことへの大きな意味があるのだろう。


(そうか、これが……)


 アリシアは目蓋を閉じながら思った。


 これが暗殺者なのだと——。

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