第54話 意味のない男

「あははははははははっ!」


 赤く染まる夜空に、男の高笑いが響く。


「やはりパレードはこうでなくてはっ! 見えますか⁉ あなたもそうは思いませんかっ⁉」


 地面に伏していたアリシアは、この男は狂気に酔いしれていると思った。

 彼女が睨みつけるそばで、男は昼日中の道を軽やかに歩むように、キョロキョロと周りを見て、うっとりとした表情を浮かべる。


「なぜ、こんな、非道を……」


 男はクスッと可笑しそうに笑う。


「道は人が決めるもの。非道と正道はのちの世が決めるもの。百年後にはこう言われているでしょう。罪人たちの町、海賊の町が一夜にして滅んだと。ただそれだけです。千年後には、神が罪人たちに天罰を与えたと伝わることでしょう」


 よく喋る。その上、詭弁をこうも垂れ流すほど自分に酔いしれている。自分が神にでもなったつもりなのだろうか——。


 いよいよアリシアもこの男になにかを言うのを諦めた。それよりも、今はこの動かない身体をなんとかしなければならない。腰から下の感覚がないのは、おそらく——背骨が砕けた。激痛は熱を伴って、容赦なくアリシアを苦しめたが、アリシアは歯を食いしばって、なんとか腕だけで動こうとする。が、その場から動くことができない。


「さぁて、そろそろここも危ない。私は残りの人間を始末してから、この地を去ることにしましょうか……」

「待て。貴様、何者だ……?」

「これから死するあなたに語る名前など必要ないでしょうが……まあ、いいでしょう」


 男は紳士のように、左胸に右手をあて、お辞儀をしてみせた。


「私の名前はイザーク。……ただのイザークです」

「エクトルと同じ、暗殺者か……」

「エクトル……?」


 イザークは「はて?」と首を傾げた。


「ああ、彼は今そう名乗っているのですか? なるほど、なかなか洒落がきいていてそれは面白い」


 イザークは笑いを堪えるようにいったが、アリシアにはピンとこない。


「なにが可笑しい?」

「いえ、なに……古い古典の一説ですよ。村人のエクトル。妻子とともに穏やかな人生を送り、物語になんの影響も与えない、セリフすらない男。それなのに名前だけが筆者につけられた、意味のない男です」


 なるほどとアリシアは理解した。あの男——エクトルにとっては、それが本当の願いだと思った。暗殺者を長く続けていたのに嫌気がさし、そのような、取るに足らない村人の一人になりたいと思って、そう名乗ることにしたのだろう。


 けれど、現実はそう甘くない。

 いつの間にか魔女の問題に巻き込まれた。

 精霊の声——かかずらう問題でもないのに、彼は自ら引き受けたというのだろうか。


「……だとすれば」


 アリシアはクスッと笑った。明らかに、イザークに対しての侮蔑の意味が込められていた。


「ん? なんでしょう?」

「貴様とあの男には雲泥の差がある」

「ほう? 面白い。いったいそれはどういうことでしょうか?」

「平穏無事を願うあの男に比べ、貴様は人を虫けら以下にしか考えていない愚か者——」




 ——ドカッ!




「ぐっ……!」


 唐突に顔を蹴られ、アリシアはうつ伏せから仰向けになった。


「エルフごときが、口を謹んでくださいね? 彼は心が弱かった、それだけです。己の役目から逃げた卑怯者です」

「いいや、そうでは——は……ぐっ……!」


 今度は脇腹を蹴られた。肋骨が折れる音がした。いよいよ息ができない状態になると、イザークは上から見下ろす感じでニヤついた。


「まあ、弱者が傷を舐め合うことまでは否定しません。ただ、あまり人を苛つかせないでくださいね?」


 イザークは手に毒針を持った。


「ただまあ、夜のおしゃべりに付き合っていただいた礼に、楽にして差し上げます。これが、本当の優しさというものです——」


 そうしてイザークが毒針を振り上げると、突風が吹き抜けた。

 すると、イザークの身体が押し返された。


「な……⁉」


 おかしな風だった。

 炎を巻き込まず、そこだけ風が吹き抜けるようにして、イザークの身体に纏わりつく。まるで蜘蛛の巣を払うように、イザークは腕をブンブンと振り回した。


「な、なんだ、この風は……⁉」


 そのときアリシアの目に薄っすらと映っていたのは、透明な異形の姿だった。


(なんだ、あれは……⁉)


 雄牛のような角を生やした女。下半身は馬——そんな異形が、イザークの身体を包み込むようにして、風を起こしている。


「かぁっ!」


 いよいよ苛立ったイザークが毒針を大きく払うと、風は空へと抜けていくようにして収まった。


「なんなんだ、いったい……! ……まあいい」


 イザークがギロリとアリシアを睨む。


 ——これまでか。


 アリシアは最後に見たものは、おそらく風の精霊だった。

 今まで見ることすら叶わなかった、エルフの国に伝わる精霊の存在。

 死を前にして、最後に見たものがそれで、アリシアは十分だと思った。


「では、安らかにお眠りなさい——」


 イザークが腕を振り上げたその瞬間——


「誰だっ⁉」


 毒針をまったくべつのほうへ向けて投げた。




 ——キンッ!




 と、弾く音がしたと思ったら、そちらに立っていたのはエクトルだった。


「……貴様か、この町をこのようにしたのは」


 エクトルの目は、周りの炎に照らされて、真っ赤に輝いていた。

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