第10話 二人の朝食

「——ねぼすけさん、起きて」


 はっとして目覚めると、ベッドの脇にミリーナの顔があった。


「っ⁉ ミリーナ……⁉」


 ガバッと布団を押しのけるとミリーナが「きゃあ」と顔を隠した。エクトルが服を着ていないと思ったからである。


「どうしてここに? いや……大丈夫、服は着ているよ」

「……本当?」

「本当だ。嘘をついても得はないからね」


 ミリーナは恐る恐る指の隙間からエクトルを見て、安心して手を下ろした。


「昨日は疲れてあのまま寝てしまってね。それで、どうしてここに?」

「朝食を持ってきたの。マーゴ叔母さんが、今日からロイドさんのところで働くなら、きちんと食べておかないとってね」


 あの人は、とエクトルは顔をしかめた。


「それと、ねぼすけは三シルバー損するってね」

「この言葉は知ってるよ……でも、まだ日の出の時刻だ」


 ミリーナは怪訝そうな顔をする。


「知らないの? 農夫の朝は早いの。ロイドさんたちはもう起きて支度をはじめているわ」

「え?」

「大丈夫。さっき話したから。来たばかりで疲れているだろうから、仕事は昼からでいいそうよ」


 エクトルは寝癖の立った頭を搔いて、朝から元気そうに動き回るミリーナを呆れた顔で見た。


「じゃあ、なんで起こしたのさ?」

「早くこっちの生活にも慣れないとね。それと、私もお腹がぺこぺこなの。さ、早く起きて、裏の小川で顔を洗ってきて。それと、身体を洗ってきたほうがいいよ? あなた、昨日から汗の臭いがするから。清潔な布は持ってきたら、それを使って」


 そういうと、ミリーナは楽しそうに寝室を出ていった。

 エクトルはベッドで上体を起こしたまま、困ったような、複雑な顔をした。


(やれやれ……落ち着きのない嫁をもらった気分だ……)


 昨日の今日で、ここまで懐かれるとも思っていなかった。精霊の話をしたからだろうか。迂闊にも、彼女を心の内側に招くようなことをしてしまったとエクトルは思った。

 ただ、彼女のいう通り汗臭い身体はたしかに気になった。


(顔と、ついでに身体も洗ってくるか……)


 夫婦ごっこに付き合うようで釈然としないが、エクトルは重たい身体を起こして、ベッドから出た。




 朝食の支度は、エクトルが小川に行っているあいだに住んでいた。戻ると、かまどに火がついていて、スープが温められていた。テーブルの上にはパンとベーコンとスクランブルエッグ。あとの二つについては家でつくってきたものだろう。

 エクトルは一つ気になっていることがあった。


「ミリーナ、かまどの火はどうやってつけたんだい? この家には火をつけるものはなかったはずだが……」


 エクトルのカバンには火打ちの道具が入っているが、カバンを漁られた様子もない。小川に行っているあいだに火をつけるにしても、少し早い気がしたのだ。


「かまどには火の精霊がいつくの。彼らは気難しがり屋だけど、きちんとお願いをすれば力を貸してくれるわ」

「へぇ、なんてお願いをするんだい?」

「薪に火をつけてくださいって」


 エクトルは可笑しくてつい噴き出してしまった。

 するとミリーナは面白くなさそうに頬を膨らませる。


「どうして笑うの?」

「いや、すまん……てっきり、なにか呪文のようなものを唱えると思っていたから」

「私、魔法は嫌いなの。それを使う魔法使いも」

「ふぅん、どうしてさ?」


 エクトルの笑みは苦笑いに変わる。昨日、村長のところで、彼女が魔法使いたちから追い出された話を聞いたためだった。


「魔法は精霊を殺す。にもかかわらず、魔法使いはみんな高慢ちきだもの」

「たしかに彼らにだって自惚れだってあるさ。なにせ、俺たち普通の人間からしたら、神秘の力を使えるからね」

「神秘の力を無理やりの間違いね? 彼らは精霊の声に耳を傾けない。魔法を使うと精霊たちを犠牲にするというのに、彼らはさも自分が偉いものだと勘違いしているの」


 エクトルは、そのいい分ならたしかにな、と思った。


「それが魔法使いの弟子を追い出された理由かい?」

「追い出されたのではなく、こちらから追い出されてあげたの」

「なるほど……」


 エクトルは苦笑して、テーブルの上を見た。


「美味そうだ。せっかく用意してもらったんだから、いただくことにするよ」


 すると今までの不機嫌さがどこへ消えたのか、ミリーナの顔には期待と笑顔が宿った。


「うん、そうして。あ、そのスクランブルエッグは私がつくったの。味はマーゴ叔母さんのお墨付きだから大丈夫。それとベーコンは——」


 笑顔で説明するミリーナを見ながらエクトルはふと思った。


(精霊が死んだら、どうなるのだろう……)


 祖父から聞いた話だと、この世界をかたちづくっているのは精霊たちらしい。精霊はありとあらゆるものに宿り、その実態はないという。彼らがいなくなった土地は不毛になり、やがて人も獣も住めなくなると聞いた。

 とある偉大な魔法使いが、魔物相手に大掛かりな魔法を使ったことがある。その後、その土地はどうなったかといえば、たしかに、それから数年は不作が続いた。魔物の障りが出たのだといっていたそうだが、もしミリーナのいうことが正しければ、つじつまは合っている。

 食事を口にしながら、エクトルはやはりそのことが気になった。


「ミリーナ、精霊の話を聞きたいんだが……」

「……やっぱりね」

「え? なにが?」

「あなたは精霊についてなにか知っている。知っているから私に興味をもった。だから答え合わせがしたい。……違う?」


 と、ミリーナは確信めいたようにいった。

 エクトルは、彼女の鋭さに思わず息を詰めたが、けっきょくうんともすんともいわずに、食事を口に運んでいったんは誤魔化した。


「……興味のあることを聞きたいと思うのは当然のことだろう?」

「エクトル、なにがあったの?」

「なにがって、なにが?」

「私はエクトルに会ってから今まで、隠しごとはしてこなかった。でも、あなたは都合が悪くなればはぐらかしてばかり。……いけないとはいわないわ」


 そういうと、ミリーナは寂しそうな顔をする。


「私があなたのことを知りたいと思っても無駄なのね。私は話してばかり、あなたは隠してばかり……エクトルは、私に本当の姿をみせるつもりはちっともないんだ」

「そんなことは……」

「ううん。エクトル……この名前だって本当の名前じゃないわ。古い戯曲に出てくる登場人物の名前。村人でセリフはない。この名前をつかった理由はわからないけれど、世をしのぶための仮の名前なら、なかなかセンスはあると思う」


 どうしてそのことを、と口に出すのは憚られた。代わりに、この女は危険だと思った。ただ賢いのではなく、真理にたどり着く術を知っている。魔術の才があるからか、精霊の声がきこえるからか、どういう理屈なのかはわからないが、とにかく、こうして会話を続けるのはまずい。


「……村で一番賢いっていったわよね? 読み書きもできるって」


 と、ミリーナは静かに言った。


「学があるのも考えものだ」


 気難しそうにエクトルがいうと、ミリーナは「あなたもでしょ?」といって、可笑しそうに笑う。


「だから、これ以上の詮索はやめておく」

「どうしてさ?」

「あなたに……嫌われたくないもの。だから、食事の続きをしましょう」


 そう言ってミリーナはくすりといつものように笑って見せたが、エクトルは内心ひどく動揺していた。朝から嫌なものを見た気分になり、食が細くなるのを感じていた。

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