09.じゃあ、なんのためにここに来たの?
翌朝、灰色の雲が垂れ込めた空の下、エクトルは村の端へ向かい、無言で歩みを進めていた。
昨夜の悪夢の名残が心の底で鈍く響き、足取りはどこか重い。
今日は、村長から頼まれた畑仕事の初日。ロイドという名の農夫が仕事を割り当ててくれるとのことだ。エクトルはゆっくりと、その道を確かめるように歩んでいた。
「おはよう、エクトル」
後ろから軽やかな声が響いた。まるで朝の鳥がさえずるような快活な声だ。
エクトルは声の主が誰かを察して、静かに息をついた。
振り返ると、案の定、そこにはミリーナが少し得意げに立っている。陽気な笑顔を浮かべ、こちらの心情などまったくお構いなしといった様子で。
「……どうしてここに?」
表情を変えずに問いかけるエクトルに、ミリーナは得意げに胸を張り、
「だって、初めてロイドさんのところに行くんでしょ? 道に迷ったら大変だからね——私が案内してあげるわ」
と、エクトルの目をじっと見つめながら言った。その視線にはどこか、軽い挑発の色が混じっている。
「気持ちはありがたいが……一人で行けるさ」
エクトルはわずかに眉を上げて、やんわりと断った。
だが、ミリーナは一歩も引かない。むしろ、彼女の瞳にはなにか探るような光が浮かび、言葉にはますます含みが増す。
「ふふん、本当? ロイドさんはね、口数は少ないけれど言いたいことははっきり言う人よ。初めての人には、あまり口を開かないかもね」
彼女は肩をすくめてから続けた。
「それに、ロイドさんのことならよく知ってる。村から頼まれた仕事なんだから、ちゃんと紹介しなきゃ失礼よ」
「村長の口添えがある。君に紹介してもらう必要はないさ」
短く言い放つエクトルだが、ミリーナはその言葉を軽く受け流し、柔らかな微笑みを浮かべるだけだった。
「私、道案内するって決めてるから。だから今日は一緒に行くわよ、エクトル」
ミリーナの言葉には、どこか譲れない意地のようなものが込められていた。
エクトルは小さくため息を漏らし、彼女の視線を避ける。
(ユウリに警告を発した翌朝からこれか……)
心の中でぼやきながらも、彼女の意志に抗う気はすっかり失せてしまった。どこか彼女の頑なさが、逆にこちらの意欲をそいでいくようだった。
「……わかった。案内を頼む」
短くそう言って歩き出すと、ミリーナはほんの一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼の隣に軽やかに並ぶ。その笑顔には、まるで彼が最初から自分の言うことを聞くと信じていたかのような余裕すら感じられた。
二人で歩き出すと、ミリーナはいつものように軽やかに質問を織り交ぜ始めた。
エクトルが道端の畑に目を向けている隙に、彼女の声が小鳥の囀りのように響く。
「エクトル、王都とルニエ村はずいぶん違うでしょう?」
その問いは無邪気な響きの裏に、微かに探るような色を帯びている。エクトルは視線を前に据えたまま、淡々と返事をする。
「王都のことなんて、取るに足らないものさ」
ミリーナは目の前の風景に軽く目をやり、なにかを計るようにエクトルの横顔を見つめた。
「ふうん……でも、王都の人からすれば、田舎暮らしって退屈で仕方ないんじゃないの?」
「俺は刺激を求めて引っ越してきたわけじゃないさ」
エクトルの冷静な声に、ミリーナはわざと軽い笑みを浮かべ、さらに一歩踏み込む。
「じゃあ、なんのためにここに来たの?」
ふと彼女の目が鋭く光った。
しかし、エクトルはその視線に気づかないふりをして歩き続ける。
「昨日も言ったが、俺は物書きだ。静かなところのほうがいいと思ってね」
すると、ミリーナはむくれたように顔をゆがめ、あきらかに不満げな声を出した。
「期待していた答えとは違うわ」
「期待? なにを?」
ミリーナは肩をすくめ、
「ナイトシェードが困っている村人のために、王国兵士を追っ払いにやってきた、とか」
と、まるでありきたりの話をするかのようにさらりと言い放った。
その軽々しい口ぶりに、エクトルは思わず周囲を見回し、眉をひそめた。
「ミリーナ、そういう話はやめてくれ」
「大丈夫よ、今は兵士なんていないから」
「そういうことじゃないんだ。俺はこの村に来たばかりのよそ者だ。変な噂が立つのは困る」
ミリーナはエクトルの警戒ぶりに楽しげな微笑を浮かべ、意味深に口元を緩めた。
「変な噂……ね」
その含みのある口調に、エクトルはわずかな不快感を覚えたが、それでも顔に表すことなく歩き続けた。
やがて村外れに広がる、ロイドの畑が小高い丘の向こうに現れた。
広々とした畑の一角に、農具を抱えたロイドの姿が見える。彼は無骨な表情のまま、土に深く心を注いでいるようだった。
「ほら、案内して正解だったでしょ? ロイドさん、口数は少ないけど、人は悪くないのよ」
ミリーナはエクトルに向かって微笑み、どこか誇らしげに言った。
彼女の瞳には、自分の判断が正しかったという満足感がありありと浮かんでいる。エクトルは小さく息をつき、視線をロイドに戻した。
「……わかった。ありがとう、でもここからは一人で話をする」
エクトルが静かに一歩前に出ると、ミリーナは彼を見つめ続けた。
まるで彼の一挙手一投足を観察し、その意図を見抜こうとしているかのようだった。
「いいわ、好きにすれば。ロイドさんがあなたをどう見るか、ちょっと興味もあるし」
彼女はそう言うと、ようやく数歩引き、軽やかに踵を返した。しかし、その去り際の眼差しには、どこか意地悪げな好奇心が残っているように感じられた。
「じゃあね、エクトル。——頑張ってね」
彼女はその言葉を残し、軽やかな足取りで去っていく。
エクトルはその後ろ姿を見送りながら、背後に消えたはずの彼女の視線が、なおも自分に張りついているような感覚を拭えなかった。
(……当て推量にしては見えすぎている。静かに過ごすつもりだったけれど、もっと息をひそめる必要があるかもしれないな……)
しかし、ミリーナの中でエクトルは既にナイトシェードだと決めつけられているかのようだった。どうして彼女には、そう見えてしまうのか——その理由を、エクトルはまだ掴めずにいた。
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