08.私の命も、流した血も、お前の中で意味を持つのだ
灰色の空が重苦しく垂れ込め、曇天の雲が地を覆い隠していた。冷えた風が音もなく吹き抜け、容赦なくエクトルの頬を裂いていく。
その場に立ち尽くす彼の周囲には、無数の亡骸が折り重なり、赤黒い血の海が広がっていた。嗅覚を苛む鉄と煙の臭い、蒸れた生臭さが入り交じり、容赦なく胸の奥までえぐってくる。
エクトルはその場に沈黙し、手に握り締めた剣の冷たさをただ感じる。
視線を下ろすと、乾いた唇を噛み、なんとか込み上げる吐き気を押さえつけた。
そのとき、かすかな呻き声が耳元を掠めるように響いた。
「……誰だ?」
振り返った先には、血まみれの仲間たちが倒れ、動かぬ目で彼を見つめている。苦しげに歪んだその顔には、かすかな声でなにかを訴えようとする様が見て取れたが、風の音が掻き消し、言葉が届くことはなかった。
ひとり、またひとり——彼の仲間たちが次々と倒れゆくその光景に、エクトルはただその場で凍りつくように立ち尽くしていた。
足は鉛のようにすくみ、手は震え、喉に詰まった言葉は、まるで封印されたかのように声にならない。
「くそっ……俺は……」
エクトルは叫びそうになる衝動を抑え、強く目を閉じた。
閉じた瞼の裏にまで、仲間たちの無念と苦痛が鮮明に焼き付いている。それが彼の心をじわじわと重く押し潰し、湧き上がる怒りと悲しみが胸を締めつける。
しかし、その感情がどれだけ渦巻いても、無力さは彼の全身を絡め取って離さなかった。
目をぎゅっと閉じたその刹那——暗闇の奥底から、仲間たちの呻き声が再び蘇った。
低く、痛みを孕んだその声が、次第に悲鳴と化していく。絶望の叫びが、彼の耳元で鋭く響き渡り、意識を引き裂くかのように襲いかかってくる。
「……俺は……なにもできない……!」
エクトルは目を見開いた。
しかし、目の前の光景は、ますます悪夢に飲み込まれていた。仲間たちの亡骸がさらに増え、血の海がじわじわと彼の足元を染め上げ、冷たく重たい闇の水が肌を伝っていく。
心が動けと叫んでいるのに、身体は凍りつき、手も足も意のままに動かない。
その瞬間、視界を裂くように鋭い光が差し込んだ。
目の前の世界が歪み、音もなく崩れ落ちるような錯覚に囚われたそのとき、どこからか女の声が響き渡った——
『生きよ……私の命も、流した血も、お前の中で意味を持つのだ。——誰もが逃れられぬ闇を、光へと変えるのは、お前の務めだ……』
その声が終わると同時に——
エクトルは現実に引き戻されたように、目を覚ました。
息を荒らげ、胸は激しく上下していた。冷や汗が額を流れ、背中までじっとりと濡れている。今も耳には、あの冷たい風の感触と、仲間たちの苦しげな呻き声が残響のようにこびりついていた。
エクトルは布団の上で身を起こし、震える手で額をぬぐった。
「夢、か……」
かすれた声でそう呟き、ゆっくりと息を吸い込む。
しかし、その呼吸は未だに重く、まるでなにかが胸をぎゅっと締めつけているようだ。静寂が部屋を支配し、冷たい夜の気配がゆっくりと忍び寄ってくる。
再び深く息を整え、震える手を自分の胸に当てた。
未だに目の奥に焼き付いた地獄の光景が、冷たい影のように心を覆い尽くしている。それでも、彼はなんとか冷静を取り戻そうと、深呼吸を繰り返した。
ふと窓の方に視線を向けると、隙間からほんの少し、微かな光が射し込み始めていた。薄紅色の朝日が、冷たい夜の闇を少しずつ裂くように差し込んでくる。
エクトルはまだ夢の余韻を引きずりながら、窓の外に目を凝らした。
朝の光は、冷え切った彼の頬を優しく照らし始め、静かに部屋全体を染め上げていく。その光は、夜の闇に囚われていた彼の心を包み解くかのような温もりをたたえていた。
(カサンドラ……安心してくれ。俺は、仲間たちの死を……決して無駄にはしない)
かつて『魔女』と呼ばれた彼女に対して——エクトルは誓いを立てるように心の中でそう思いつつ、重たい身体を引きずるようにして、ゆっくりと窓の側へと歩み寄った。
冷たい空気が外には漂っているが、地平線には確かに朝日の輪郭が浮かび上がり、新しい一日が始まろうとしている。
彼は静かに息を吐き、再び目を見開いた。その瞳には、かすかな決意の光が宿っていた。
朝の光が部屋全体をしっかりと照らし出し、彼の中で新しいなにかが目覚めるのを感じていた。
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