07.今はなんとお呼びすればよろしいですか?
夜半、月明かりが細く森を切り裂き、冷たい光があたりを静かに染めていた。
そのころ、エクトルは微かな人の気配に目を覚ました。
——窓の外に、なにかがいる。……いや、わざと気配を膨らませたな。
そんな漠然とした感覚が、彼を現実へと引き戻す。冷えた夜風が枯れ枝を揺らし、その音が部屋の静寂に染み込んでいる。
エクトルは、息を潜めて窓のほうを見つめた。
暗闇の中、じっと動かない影が一つ——。まるで自らも夜の一部であるかのように、静かにそこに存在していた。
「ユウリか」
エクトルは声を押し殺してささやいた。
影が微かに動き、細い声が闇を裂いて返ってくる。
「はい」
エクトルは窓のほうに慎重に歩み寄り、錠を静かに外して隙間を開けた。
夜の冷気がするりと部屋に流れ込み、彼の頬を冷たく撫でる。その中、ユウリの姿は影のように窓の隙間にじっと佇んでいた。
「今はなんとお呼びすればよろしいですか?」
「エクトルだ」
「では、エクトル様——」
エクトルはふと、雲に隠れかけた月を見上げ、声を抑えながら訊ねた。
「首尾はどうだ?」
その問いに応じて、ユウリの声が夜の静寂を鋭く切り裂き、報告が告げられた。
「村の中心部にある集会場には士官が一名、騎士が三名、そして歩兵と弓兵が合わせて二十名が待機しています。さらに、村の東には三名、北の森の小屋に三名。——全員、王国の正規兵ですが、かつて他国の傭兵だった者も混じっています」
ユウリの正確な報告に、エクトルの顔がわずかに歪む。彼の奥歯がぎりっと音を立て、硬い決意がその胸にしっかりと根を張ったように感じられた。
「……思った以上に多いな」
エクトルは顔をわずかに前に出し、闇を睨むように目を凝らした。その視線には、焦燥と不安が交錯し、なにかを見透かそうとする鋭さが滲んでいた。
「兵の数は……三十か。間違いないのか?」
ユウリは即答せず、ほんの一瞬言葉を選ぶように視線を彷徨わせたのち、短く頷いた。
「間違いありません。彼らの巡回は計画的で、隙はほとんどありません。——ただ……」
ユウリは一瞬口をつぐみ、僅かに眉を寄せた。
それに気づいたエクトルが、低く促す。
「なにか気になることがあるのか?」
ユウリは一度息を整えてから、確かめるように慎重に口を開いた。
「どうしても腑に落ちません。村一つにこれだけの兵が張り付く理由が、私にはわからないのです」
その言葉には冷静な分析とともに、わずかながら不安の色も感じられた。エクトルは、その声を受けて一瞬視線を彷徨わせ、ふっと短く頷いた。
「そうか、お前も同じことを感じたか……」
彼の表情に緊張が走り、まるで答えを導き出すように瞳に鋭い光が宿る。
「守ることと、囲むことは一緒の理屈だ。そのために、人手がいるってわけさ」
「では、やはり……」
「ああ。もう収穫期だ。情報が正しければ、そのうちわかることさ……そうはさせないが」
そして、小さな笑みを浮かべ、低く呟いた。
「それと、もう一つ気になることがある」
エクトルが低くささやくと、ユウリがすっと影の中で姿勢を正した。
「なんでしょう?」
「道具屋の小娘だ。ミリーナという名の……」
その名が静寂を破った瞬間、ユウリの影がわずかに揺れたのが、エクトルの目に映った。
「ミリーナ……その人物に、なにか特別な動きが?」
ユウリの声には警戒が含まれている。
エクトルは短く首を振り、顔を曇らせたまま続けた。
「特に変わった素振りは見えない……いや、彼女自体が変わっているのかもな?」
「と言いますと……?」
「……いや、なんでもない。ただ、村人たちとの接し方も自然で、目立つことはしていないが、逆にそれが不安だ。——彼女の駆け引きが、どうにも異様なんだ。見えすぎている」
エクトルの声にわずかに重さが混ざると、ユウリは恐る恐る問いかける。
「危険な存在と見ているのですか? まさか、エクトル様の正体を?」
エクトルは短く目を閉じ、窓枠に手をかけたまま、ふと夜空を見上げた。雲の切れ間から、わずかに月が覗いている。
「いや、まだなにもわからない。ただ、彼女には近づかない方がいい。——あの瞳の奥になにがあるのか、俺にも見えない」
冷たい響きの言葉が、部屋の暗闇に溶け込むように消える。ユウリは短く「了解」と応え、さらに促すように一歩前に身を寄せた。
エクトルが再び視線を窓の闇に戻し、再び静かに言葉を紡ぎ出す。
「最後に、もう一つ……村長が妙なことを訊いてきた。——精霊のことだ」
ユウリの身がわずかにこわばり、暗闇の中でその瞳が一瞬輝いたかのように見えた。
「世間話に過ぎないかもしれない。——だが、どうも引っかかる。なぜあの場で急に訊ねてきたのか……俺なりに考えてみたが、村長は俺を試すようだった」
「エクトル様は、なんと?」
「信じないと答えておいたが……」
エクトルの言葉が途切れ、部屋に一瞬、冷たい沈黙が広がる。窓から流れ込む夜風が、室内をひやりと撫で、影を微かに揺らしていった。
「……ユウリ、東の森のイグレシアスの元へ向かってくれ。あの男なら、精霊についてなにかしら知っているはずだ」
エクトルの声には、微かな焦りが滲んでいた。その視線がユウリに向けられ、夜の静けさを貫くように鋭く光る。
ユウリは一瞬、言葉を飲み込み、それから低い声で応じた。
「……お言葉ですが、イグレシアス様は、かねてから我々の計画には関わらないと以前から明言されていました。協力していただけないでしょう」
冷静な返答だったが、その端々には微かな不安が見え隠れしていた。
エクトルは無言で頷き、視線を離さない。
「話を聞くだけだ。精霊について訊ねれば、知識自慢のイグレシアスのことだ、知っていることを教えてくれるかもしれない」
ユウリは少しのあいだ考え込んだが、やがて短く答える。
「……承知しました」
彼女が冷静に返事をしたのを見届け、エクトルはさらに続ける。
「それで、どれくらいかかる?」
「片道七日、往復で十四日ほどかと」
「それでいい。急ぐな、確実に動け。精霊の話がただの世間話か、それとも重大ななにかを含んでいるのか……イグレシアスからどんな小さなことでも手がかりを見つけてくれ」
エクトルの声には静かながらも重みのある決意が込められていた。
ユウリは彼の言葉を受け止め、肩をすくめて答えた。
「承知しました」
彼女は身を翻し、窓から音もなく下がった。その動きは夜の影と一体化するかのようだった。エクトルはゆっくりと窓枠から手を離し、目を閉じた。
「気をつけろ、ユウリ。——ここからが本当の戦いだ」
エクトルは窓をそっと閉じると、再び静寂が部屋に戻った。
月光が冷たく降り注ぐ深い夜の中で、エクトルは静かに目を細め、窓の向こうに広がるまだ見ぬ謎へと心を巡らせていた。
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