05.いや……信じないな

 昼下がりの光が、部屋の薄暗い角々を照らしていた。


 村長はエクトルを一瞥すると、無言のまま揺り椅子をわずかに揺らし、くゆらせたパイプの煙を天井へと送り込んだ。漂う煙は、彼の顔に刻まれた深い皺の影をより一層濃くしていく。白髪混じりの頭が、窓から入ってくる微かな陽の光を受けて、鈍く輝いていた。


「最初に言っておくが、厄介事はごめんだ」


 村長は淡々と呟き、揺り椅子を少し強く揺らした。


「よそ者は厄介なのか?」


 エクトルは問いかけながら、静かに室内を見渡す。


 部屋には、必要最低限の家具と道具だけが並んでおり、飾り立てるものなど一切ない。暖炉の上には、無造作に一振りの剣が掲げられていた。まだ新しいその剣は、王国兵士が持つ標準の剣であることがわかる。


(墓標代わりの……そうか……)


 エクトルは一瞬目を細め、その事実に静かに頷いた。


「あんたが問題を起こすなんて思っちゃいないが、よそ者がなにをするかはわからんもんさ。世の中には形式ってもんがある……今は物騒でな、ナイトシェードの残党がこの村に潜んでいるって噂が流れているんだ。だから、みんな神経を尖らせているってところさ」


 村長は苦々しげに笑みを浮かべるが、その目は焦点を失ったかのように遠くを見つめている。


「ところで、ミリーナと一緒に来たのか?」


 不意に村長が窓の外へと目を向けた。

 その視線の先には、ミリーナが小鳥と戯れる姿があった。


 彼女のプラチナブロンドの髪が風に揺れ、陽光を浴びていっそう輝いている。小鳥が彼女の指先にちょこんと止まり、ミリーナは微笑みを浮かべていた。その無垢な表情は、まるで外の世界の混沌や闇とはまったく無縁であるかのようだ。


 エクトルは静かにその光景を見つめ、どこか複雑な想いを抱きながら、視線をそっと窓から外した。


「荷馬車に乗せてくれたハンスさんに、マーゴさんに挨拶するようにって頼まれたんだ。それで、ミリーナがここまでの案内役を買って出たってところかな」


 村長はその言葉に一瞬反応し、探るような視線でエクトルを見つめ返した。


「変わった子だろ?」

「ああ……不思議な人だ」

「不思議とは?」

「……普通じゃない気がする。なにか、ありそうな子だ」


 エクトルは少し言葉を選びながら答えたが、村長の表情は途端に険しくなった。その顔には、どこか冷たい影が差している。


「……あの子が六つのときの話だ。畑仕事の手伝いをさせていたんだが、少し目を離した隙に、自分で鎌を手に取ってな——そのまま、右の親指を斜に切っちまった」


 村長はため息をつきながら、低い声で続けた。

 エクトルはその話に耳を傾けたが、なにかしらの奇妙な違和感が、エクトルの胸にわだかまった。窓の外を見て、ようやくその違和感の正体に気づく。


「……彼女は右利きでは?」

「ああ。だから、自分でわざと切ったのさ」


 村長は静かに答えた。その声には、抑えきれない複雑な思いが滲んでいる。


「自分で……? どうしてそんなことを?」


 エクトルは眉をひそめた。


「わからん……だが、痛がるどころか、血に染まった指先をわしに見せて、嬉しそうにこう言ったんだ——『私にも、ちゃんと赤い血が流れているんだね』ってな……」


 村長は声を落とし、苦笑するようにして言葉を続けた。


「あのときから、わしはミリーナをどう扱えばいいか、ずっとわからないままだよ」


 その場の空気が、さらに重く張り詰める。


 村長の目には、諦めと憂いが混ざり合っており、エクトルはその言葉の奥にある重みを感じ取った。エクトルもまた、目を細め、村長の語る話に複雑な感情を抱きながら耳を傾けていたが、村長の言葉の真意を測りかねていた。


「わしが言いたいのは、きっとあんたを怒らせることもあるだろうが、あの子に悪気はないってことさ。——この村に長くいるつもりなら、長い目で見てやってくれ」


 その低く響く言葉には、なにか深いものが含まれているように感じられる。エクトルはその意味を読み取ろうとした——が、すぐに村長がふっと話題を変えた。




「……ところで、あんた、精霊は信じるかね?」




 その唐突な問いに、エクトルは思わず戸惑った。村長がなにを意図しているのか探りつつ、慎重に首を横に振る。


「いや……信じないな。それが、ミリーナとなんの関係が?」


 村長は無言のまましばしエクトルを見つめた後、ふっと力を抜き、なにか含みを持たせるように微笑んだ。


「……訊いてみただけさ。忘れてくれ」


 その瞬間、窓の外からミリーナの無邪気な笑い声が響いてきた。

 エクトルの視線は自然と音のする方へ向かう。


 そこには、空に向かって小鳥たちを放つミリーナの姿があった。彼女は空を舞う小鳥たちを見上げながら、踊るように軽やかにステップを踏む。スカートの裾が風にふわりと揺れ、陽光がその周囲を淡く照らし出す。


 どこか夢の中の幻影を見ているかのような、美しい光景だった。


 エクトルはその光景に一瞬だけ心を奪われ、無意識に息をのむ。彼女の無垢な笑顔が、村に漂う不安や闇を一時的に追い払っているかのようだった。


 だが、彼はすぐに感情を押し殺し、いつもの冷静な表情を取り戻す。それは、心の奥に芽生えたものを自ら封じ込めるような、冷たさを含んだ表情だった。

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