第一章 天才薬師のヴァイオレット③

 一生分に感じるほどめられるだけにとどまらず、まさかとなりだいていこくの皇帝──シュヴァリエ・リーガルから求婚されるだなんてヴァイオレットはにわかに信じがたかった。

 そのため、ヴァイオレットは何度も何度も「つま?」「つ、ま?」「妻?」と同じ言葉をらしてしまう。

「ふっ……ヴァイオレット嬢、大丈夫か? 突然のことでおどろくのは分かるが、少し落ち着くと良い」

 シュヴァリエから求婚されて、こわれたおもちゃのように「妻」という言葉を連呼したヴァイオレットだったが、彼に話しかけられたことでハッと意識が現実に戻る。

 いつの間にか立ち上がり、こちらを優しげなひとみで見下ろすシュヴァリエは、ヴァイオレットに対してゆっくりと頭を下げた。

「本当にすまないな、突然。しかも、こんなに大勢の人前で……婚約解消の話をしていた直後に、求婚だなんて」

「あの、その……失礼なのですが、じようだん、などでは……」

「悪いがいつさい冗談ではないよ。俺は本気でヴァイオレット嬢──貴女を妻にしたいと思っている」

「……っ、ほ、本気で……妻に……」

 シュヴァリエは再びヴァイオレットの手を取ると、ギュッとにぎめる。そんな彼の手の分厚さや、温かさを感じていると、シュヴァリエは聞き心地の良い低い声でささやいた。

「……そう。俺は本気だ。どうか、俺の求婚を受け入れてくれないだろうか」

「で、ですが、私はダッサム殿下から婚約されたばかりの身で……」

 シュヴァリエの求婚には、確かに驚いた。

 けれど、ダッサムとはちがって、常にこうていとしての佇まいをくずすことなく、国やたみのために身を粉にして働いているシュヴァリエのことは以前から尊敬していた。だから本音を言えば、求婚されたことはうれしかった。

 能力を認めてくれたり、褒めてくれたりしたことも嬉しかった。ダッサムと婚約を解消してもいずれだれかのもとにとつぐのならば、こんなてきな人なら良いのにと思うくらいには、シュヴァリエの求婚は胸にひびいたのだ。

(けれど……こんなに大勢の前で婚約破棄と言われてしまった私は、社交界で傷物あつかいされてしまうわ。きっとシュヴァリエ皇帝陛下のてんになってしまう。それは、いけないわ)

 だから、ヴァイオレットは本心をかくして、シュヴァリエからの求婚を断ろうと思い、彼から手をはなしたのだけれど、その時だった。

「シュヴァリエ皇帝陛下! ご無事でなによりでした! いやー! 良かった! しかし、こんな女に求婚などと、まだ体調はばんぜんではないのでは?」

 マナカのかたき、ヴァイオレットたちの近くへいそいそとやってきたダッサムは、シュヴァリエに謝罪の一つもすることなく、ヴァイオレットをさげすむようなことを平気で言ってのけた。

「……っ、ダッサム殿下! 私のことはなんとおつしやっても構いませんが、まずは正式に謝罪するのが最低限のれいではありませんか!? いくらなんでもシュヴァリエ皇帝陛下に失礼ですわ! 命が危なかったんですよ!?」

うるさいぞヴァイオレット! 私はりよくい? なんてことは知らなかったのだ! 知らなかったのだから仕方がないだろうが! それに貴様の変な薬で助かったんだろう? もうそれで良いではないか!」

「……っ、ですから! それではいけないのです……!」

 ダッサムの暴走をマナカは止める気はないのか、ダッサムをいとおしそうに見つめるだけで、いさめることもしない。

 ダッサムとマナカでこの国の未来はだいじようなのだろうかとヴァイオレットは不安に思ったが、今はシュヴァリエへの非礼をどうにかしなければと、彼に向かって力一杯頭を下げた。

「本当に申し訳ございません……! シュヴァリエ皇帝陛下、たびの件……すべては我が国側の責任でございます」

「……いや、ヴァイオレットじようは謝る必要はないよ。むしろ、貴女は俺の命の恩人だからね。……だが、ダッサム殿下、少し良いか」

 地をうようなシュヴァリエの低い声で名前を呼ばれたダッサムは、怖がって体を縮こまらせる。

 なにもこわがっていませんよ、とふんぞり返ったような体勢になってシュヴァリエに向かい合ったダッサムを見て、ヴァイオレットは頭が痛くなった。

「……俺は殿でんと、新たな婚約者のマナカ殿どのにはひどいかりを感じている。後で貴殿たちのことは正式にこうさせてもらうから、そのつもりでいてくれ」

「!? シュヴァリエ皇帝陛下! それはやめていただけませんか!? あっ、そうだ! 魔力酔い? については謝罪しますから、どうか今日のことは私の両親には内密に……!」

 ヘコヘコと謝り出したダッサムに、シュヴァリエは大きなためいきを漏らした。

「……ハァ。こんなに大勢の前で起きたことを、なにをどう内密にするか逆に教えてほしいくらいだが、まあそれは良い。それに、どうせ謝るのならばヴァイオレット嬢に諌められた時になおに従えば良いものを、いまさら……あきれたものだ。ああ、それと、俺がおこっているのは俺が魔力酔いを起こしたことだけではない」

「と、言いますと……?」

 ヴァイオレットも疑問に思いシュヴァリエに視線を寄せれば、彼はヴァイオレットにいちべつをくれてから、口を開いた。

「ヴァイオレット嬢を大勢の前でののしり、はじをかかせたこと。しようもないような罪を言い立てて、彼女を傷付けたことだ」

 怒りをまとわせた声色で、ヴァイオレットが傷付けられたことに腹を立てていると話すシュヴァリエ。

 ヴァイオレットはシュヴァリエの気遣いが嬉しくて、一瞬鼻の奥がツンとした。けれど、この場ではぜんとした態度でいなければと、必死にこらえた。

「そ、それは……! ヴァイオレットが悪くて、それに、マナカはいやがらせを──」

「ヴァイオレット嬢の婚約者だったはずの貴殿は、一体彼女のなにを見てきたのだか。国のため、民のため、身を粉にしてきた彼女が、国の発展や平和につながる聖女殿に嫌がらせをするわけないだろう。……ハァ。まあ、貴殿にはなにを言ってもだろうから、ハイアール国王陛下にしっかりと話をつけさせてもらう。……かくしておけよ」

「……っ、そ、そんなっ!!」

「ダッサ……」

 皇帝として声をあららげることなく冷静に対処しているシュヴァリエの一方で、王太子としてのきようのかけらもないダッサムに、とあるれいじようがそう囁く。

 それからダッサムは、すっかり大人しくなり、マナカに支えられながら、げるようにして会場を出ていった。

 よほどシュヴァリエが怖かったのだろうか。それとも、両親──現国王ときさきに此度の件を抗議され、なにかしらのしよばつを受けることに絶望したのか。もしくは、「ダッサ……」という言葉が、あまりにもずかしかったからだろうか。

(まあ、最後の最後に私をにらみつけるところだけは、相変わらずだけれど)

 どうせこのパーティーで起こったことは、全てヴァイオレットが悪いのだと思っているに違いない。

 ヴァイオレットが婚約破棄された事実を悲しみ、ダッサムにすがれば、マナカに聖女の力を使わせることもなく、こんな大事には至らなかったと考えているのだろう。

 長年ダッサムの婚約者だったヴァイオレットには、彼の考えが手に取るように分かった。

(これを機に少しはご自身のけいそつな言動を改め、反省し、良き王となるため努力してくださったら良いのだけれど……。どうかしら)

 ダッサムが出て行ったとびらながめながら、元婚約者について思考をめぐらせていたヴァイオレットは、背後からおだやかな低い声で「ヴァイオレット嬢」と、名前を呼ばれたので、くるりとり向いた。

 そしてヴァイオレットは、その声の主に再び頭を下げた。

「シュヴァリエ皇帝陛下。改めて、この度は危険な目にわせてしまい、そして不快なものまでお見せしてしまって、本当に申し訳ありません」

「……何度も言うが、貴女あなたが謝る必要はないよ。それと、さっき出て行ったクソ男──失礼、あの者たちの話はいつたんやめにして、俺との未来について考えてほしいのだが」

「……っ! み、未来……っ」

(って、待って? ダッサム殿でんのことクソ男って言った?)

 シュヴァリエのとつぜんきたない言葉にヴァイオレットはおどろいたものの、もしかしたら聞きちがい、もしくは彼の言い間違いだろうと、深くせんさくすることはなかった。

「その、さきほどきゆうこんの件なのですが……」

 それからヴァイオレットはばやく頭を切りえて、先程の彼の問いに答えようと口を開く。

 自身の感情はどうあれ、婚約破棄された自分が皇帝の妻になるのはシュヴァリエにとって良くないだろうと、再び断ろうとした、その時だった。

 シュヴァリエはヴァイオレットの耳元に顔を寄せて、囁いた。

「どうか断らないでくれ。貴女を妻にしたいのには、もう一つ大きな理由──事情があってな」

「事情……?」

 ややうわった声がれたヴァイオレットに、シュヴァリエは言葉を続けた。

「ああ。実は我がリーガルていこくには、こうていの地位をいだ者が妻をめとる際、ある決まりがあるんだ」

「……! 決まりですか?」

 そのとある決まりとやらがあるから、もしかしたらシュヴァリエは今までけつこんをしていなかったのではないだろうか。

 さといヴァイオレットはそこまで察して、そして続く彼の言葉に耳をかたむけた。


「実は、皇帝はそくしてから初めて口付けをわした者を、妻にしなければならない決まりがある。その相手に断られた場合は、一生はいぐうしやを持てない」


「……!? それって、つまり──」

「ヴァイオレット嬢が俺の妻になってくれないと、俺は一生独身だということだ。……皇帝という立場である以上、死ぬまで独身というのはさすがにな。ということで、ヴァイオレット嬢」

(ああ、なるほど。そういうことだったのね)

 ヴァイオレットは、この段階で全てを理解した。

 おそらく自身はシュヴァリエに人としてきらわれてはいないだろう。それに、彼のめ言葉や求婚の言葉は完全なうそには聞こえなかった。

 けれど、シュヴァリエが求婚してきた本当の理由は、皇帝の配偶者選びの決まりがあるからなのだと。

 このことを耳打ちで打ち明けて、みなの前では正式に求婚してくれたのは、ヴァイオレットの立場やプライドを、守るためなのだと。

 皇帝という立場の事情、自身へのはいりよ。ヴァイオレットは、それをしっかりと理解した、だから。

「──改めて、俺の妻になってくれないだろうか」

 耳元からはなれ、皆に聞こえるような声で再度求婚をするシュヴァリエ。

 ヴァイオレットは口のはしを少し上げて、目を細め、美しいみをかべる。

「……はい、もちろんでございます。シュヴァリエ皇帝陛下」

 そして、ヴァイオレットは様々な感情を胸の奥にしまい込み、その求婚を受け入れた。

「ありがとう! ヴァイオレット嬢! 絶対に幸せにするから」

 まるで、長年のこいごころじようじゆしたかのように、大きく目じりを下げて、心底うれしそうにシュヴァリエは言う。

 ──ヴァイオレットはこの時、確かにシュヴァリエにかれ始めていたけれど、この思いが明確にれんあい的な意味で好きなのかどうかは分からなかった。

 だから、シュヴァリエの求婚の意図が心から愛したからではなく、独特な配偶者の選定法のためだったとしても、受け入れることができた。

 もちろん、求婚に事情があったということには、少なからず傷付いた。

 けれど、自身が傷物あつかいされるかもしれないことをして、シュヴァリエからの求婚を断る必要はないこともまた事実であり、そのことにあんも覚えた。人間の感情はなんて複雑なのだろう。

「絶対、絶対に幸せにするからな、ヴァイオレット嬢」

 ──だが、満面に笑みを浮かべ、幸せにするとちかいながら手をにぎってくれたシュヴァリエに、複雑な感情はパンッとはじけた。

 次いで、心に花がいたような嬉しさに包まれるのだから、ヴァイオレットのおとごころは案外単純なのかもしれない。

(そう、よね。こんなに喜んでくださっているんだもの、理由はどうあれ、彼の妻としてがんりたい)

 シュヴァリエとの結婚や、これからの未来に不安がないわけではなかったけれど、きっと彼とならばたがいに尊重し合えるような関係を築けるだろう。

「はい……! これからよろしくお願いいたします!」

 そう感じたヴァイオレットは、シュヴァリエの節ばった大きな手をギュッと握り返した。

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