一②

 雪でくつはすっかりれてしまい、足先がかじかんでいる。手も同じで、手袋はもうほとんど役に立っていなかった。

 村はずれに位置する呉師父の家は、相変わらずのあばら屋だった。かいどうからも離れており、昼間に生徒たちが通うのもやっとのありさまだ。

 冷たい冬風に身体のしんまでこごえそうだ。

 はんきようらんになって戸をたたくと、しんげに「だれじゃ」という声が向こうから聞こえる。

「俺です。永雪です」

「何じゃと?」

 つっかい棒を外し、木戸が開いた。

「どうしたのじゃ、永雪。こんなけに」

 さもねむそうなれぼったい目をこすりつつ、それでも彼は永雪をむかえ入れてくれた。

 永雪は呉師父が授業を行う広間ではなく、彼の住居に通された。どこの周囲には何冊もの書物が積み上げられていた。もちろん、書物は貴重なもので、いずれも彼がわざわざ都で手に入れて持ち帰ったものだそうだ。

 師父は近隣の町に知り合いがいるとかで、時折、こうした書物をこうかんしに出かけていく。いくつになっても探究心のおうせいな呉師父は懐宝とどこか似ている。実際、懐宝と呉師父はとしは離れているがだんから親しく、の相手を求める懐宝はしばしばここに入りびたっていた。

「──父さんが都で死んだんです」

「何じゃと? 病気か?」

「これを」

 永雪がふるえる手で渡した紙を、師父は急いで広げた。

「なになに……懐宝がおそれ多くも陛下に碁の指南をする機会をねらって、暗殺をくわだてたと!?」

「そうらしいです」

 手紙を読むひまはなかったので、内容のかくにんは師父に任せてしまったが、彼は授業を行うために口頭で読み上げるのが習いしようになっているので、こちらも内容がわかってちょうどよかった。

鹿鹿しい! あいつはそんな大それたことをたくらむ男じゃないわい」

 師父はすっかりふんがいし、声をあららげた。

「わかってます。だから……だから、くやしくて」

 永雪は自分のてのひらを握りめ、つめを立てる。そうでなくては、理不尽ないかりを師父にぶつけてしまいそうだった。

「いずれにしても、朝にはおまえをらえにくると村長が言ったのだな?」

「……はい」

 永雪はけわしい面持ちになってうなれた。

いまいましいが、それは仕方あるまい。懐宝は気の毒じゃが、ほん人は一族ろうとうみなごろしにするのが決まり。十二分なせんをなされなかったようなのが気になるが、しよみん相手なら詮なきことだ」

「でも! 一族を全員死罪に追いやるような大きな罪です。ちゃんと裁きが行われたかもわからない。そんなに簡単に決められてしまうのでしょうか……」

しようもでっち上げられたのだろうな。死人に口なしで、こうなっては村長も断れまい。だからおまえを、一刻も早くがしたいのだろう」

「やっぱり、逃げなくちゃいけませんか」

 それは、父の愛した村を捨てなくてはいけないという意味だ。

「逃げなければ、死ぬ。まさににだ。村長だって、おまえのために危険をおかしたのだ。がっかりするだろうよ」

「そうだけど」

 永雪はしゆしんみ締める。

 生まれてこの方、牟礼から出たためしがないのだ。どこかへ逃げ延びよと忠告されたところで、行き先など思いつくわけもない。

「おまけに、ただ逃げるだけでは、だめだ。一度決めたなら、絶対に逃げ切れ」

「どうしてですか?」

「おまえを逃がしたと兵士に知られたら、村長や村人がとがを負う。だが、おまえがいつ逃げたかすらわからないと答えれば、村長たちは無罪ほうめんとなるだろう。つまり、おまえが速やかにとうぼうできるかがかんようだ」

 そこまでのかくで、あの人のよさそうな村長は自分を逃がしてくれたのか。

 寒村だが、ここにはあたたかい人と人の結びつきがあった。人口が少ないものの、おたがいを尊重する文化がある。それは、かけがえのないものだった。

「でも、俺はここ以外は全然知らないんです。となりまちのことだってわからない」

「だから、村長はわしのもとへやったのだろう。しかし、行き先はおまえだいじゃ」

「え?」

 意外な言葉だった。呉師父が決めてくれるのではなかったのか。

はんはだめだ。それこそ、隣町に逃げるくらいでは無意味じゃ。では、ぐんにするか? 必ず手配書が回る。けんでもあやしい」

「じゃあ、国を出るとか?」

「国境の警備は厳重じゃ。金も備えもなければ、その前につかまる」

 師父はあっさりと言い切った。

「全然、思いつきません……」

 彼はふっと笑い、すぐに真顔になった。

「わしはただのおいぼれじゃが、これでもかんがんのはしくれ。宦官としてここまで生き残ったからには、それなりのつてはある」

「はい」

「おまえは器量がいいから心配だが、まあ、いっそ南方にでも行けば問題はなかろう」

 南方の土地は、暘都をえてさらに遠くだ。確かに、そこまで追っ手は来ないだろう。

「何もなかったものとして、ですか?」

「それはそうじゃ」

 何も、なかった。

 父が殺されたとしても、それすら目をつぶる。

 ──そんなことが、できるのか?

 十四年間、自分を育ててくれた父親。ゆいいつ血のつながった肉親をわけもわからぬままに殺されて、それでも見過ごせと? 水に流せと?

 そんな……そんなの……あっていいはずがない!

「──俺は、いやだ」

 永雪は押し殺した声でつぶやいた。

「なに?」

「嫌だ!」

 今度ははっきりとした声になり、がばっと顔を上げて老人のしわの深い顔をぎようした。

「せめて、父さんがなんで死んだか知りたい。父さんは、陛下へのほんを考えるような人じゃない!」

「永雪、落ち着くのじゃ。おまえらしくない」

「俺らしいって何ですか!? 親を殺されてるのに、口をつぐむなんて……俺は嫌だ!」

「本当に知りたいのか?」

 呉師父がたずねる。

「当たり前です!」

「やれやれ。おまえは同じとしごろの子どもよりも大人びて、しっかりしたやつだと思っていた。だが、わしの見込みちがいだったようじゃ」

「……申し訳ありません」

 落ち着きを取りもどし、永雪は項垂れた。師父にめ寄るなんて、ずかしいをしてしまった。

「いや、違う。おまえがわしの期待にそむいたわけではない」

 永雪のりようかたに手を置き、呉師父は首を横にった。

「わしは……うれしいのじゃ」

「え?」

「この国の人々は、みな、おかみに飼いらされている」

「…………」

 師父は、いったい、何を言いたいのだろう。

だれもが、おかしいことをおかしいと思わない。仮に疑問をいだいたとしても、口にできない。心にかぎをかけられ、舌をこおらされているのじゃろうな。だが、おまえはそれが嫌だと言った。おかしいと言った。その勇気こそが、今のたみくさに必要なものなのじゃ」

「でも、勇気だけじゃ何もできません。俺が一人でえたって、殺されるだけでしょう」

「人の志をめてはならぬ」

 志──。

 胸を熱くする一語に、永雪は目を見開いた。

「おまえがその心を持ち続ければ、あるいは、天命が下るかもしれぬ。どろの中から生まれたものであろうと、地をうものの望みであろうと、それでも、志というのは気高い。志さえつらぬけば、いつかきっとおまえの願いもかなおう」

 熱っぽく言い切られたが、永雪としてはかい的だった。

 呉師父はきゆうていでの権力とうそうに敗れ、この村に逃げ延びた人物だ。彼の言葉は理想的なものばかりで、現実にそくしていないかもしれない。

「志だけじゃ、おなかふくれないでしょう」

「そうでもないぞ。手始めに、都へ行け」

 思いがけない師父の提案に、永雪は目をみはった。

「えっと……何をしに? 人を集めて革命を起こすとか?」

 まだ自分は十四歳だ。あと二、三年もてば妻をめとるとはいえ、家庭を築くのと革命を起こすのとでは大違いだ。

 そのうえ、仲間がいない。永雪の友人は、にんたいづよくおとなしい連中が大半だ。

 永雪は弁が立ってめんどうくさいと言われることが多かったので、なるべくだまっているように心がけていたくらいだ。

「それはぼうじゃ」

 静かにたしなめられ、永雪はむっとする。

「じゃあ、何をしに?」

「父親がくなった理由くらい、知ってもばちは当たらないはずじゃ。そのうえで、おまえはおのれの志をどうかすか決めればよい」

「都に行けば、父の死因がわかりますか?」

 永雪は思考をめぐらせたが、師父の真意は見えてこなかった。

「無論、ただ行くだけでは意味がなかろう。策がなければ何もなし得ぬ。おまえなら、都で何をする?」

「まず、父を呼んだ貴族をさがします」

「貴族一人一人を訪ね歩くつもりか?」

 都には名門貴族がそれこそ何十家と暮らしている。分家もあるだろうし、いちいち訪ねても取り合ってもらえないだろう。

「食堂とか、貴族が多く集まる場所はないんですか?」

「たいていの貴族は家におかかえの料理人がいるから難しかろう。だが、一年中貴族がつどう場所がある」

「……もしかして、宮廷?」

「うむ」

 呉師父は深々とうなずいた。

「けど、俺が宮廷に入るなんて……そうか! 宦官になるんですね!」

「違う」

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