壱②

 物と人、人と人、モノとヒトの間には無数にえんからんでいる。一度妖怪におそわれた人がほかと比べて以降も妖怪に襲われやすくなるのは、妖怪と出会ってしまった時にと縁を結んでしまうからだ。

 黄季はここ数日、毎日のように妖怪に襲われていた。そして毎回この庭に落ちてもいた。つまり黄季は妖怪ともこの庭とも縁が結ばれている。もし黄季をばいかいにしてこの世界との縁を無理やりつかむことができれば、外側からちからくでこの空間に押し入ることだってできないわけではないのだ。

 そう。強力な結界で囲まれて外界とかくぜつされたことにより、もはや『異界』と呼んでも良い状態になっていた、このしきの中にだって。

「っ……えっと、あー……とにかく、そこの貴方あなた!」

 体中がふるえている。あんなのに勝てっこない。勝てっこないと分かっていたから、黄季はずっとげ続けていた。

 でも、もう引けない。

 だってここにはがいる。

 ──名前、いときゃ良かったな。

「危ないから、屋敷の中まで下がっていてください。俺じゃはらうことはできないかもしれないけど、このお屋敷だけは守りますっ!」

 いまさらになって、呼びける名前さえ知らないことに気付いた。多分相手も黄季の名前と、泉仙省泉部所属の退魔師ということしか知らないのだろうけれど。

 ……そう、おたがいに、まだそれだけのことしか知らない。

 だけど。

「……戦うのか? お前が?」

 男を背にかばって妖怪の視線からかくすように立った黄季に、男があつにとられたような声を上げる。

「お前も、退魔師の端くれなら分かっているのだろう? 私は……」

「分かってます」

 その声にどんな感情が乗っていて、彼が今どんな表情をしているのか、彼に背中を向けている黄季には分からない。

「こんな強力なげんじゆつ結界を巡らせた屋敷で、その結界をしながらたった独りで暮らしている貴方は、きっとただのヒトじゃない。きっと貴方は、戦おうと思えば俺よりもずっと強い」

 分からないからこそ、こんな口をたたくことができたのかもしれない。

「生き延びることを第一に考えるならば、多分貴方を説得して戦ってもらうのが一番がたい道だって、分かっているんです。泉仙省の退魔師たるもの、たみを守り、おのれが生き延びるために、一番手堅い方法を取るべきだってことも、同じくらい、分かってはいるんです。……でも、俺の判断が甘ちゃんだって分かってても、それでも」

 話している間にも、黄季の視界に映る景色はゆっくりとくずれていた。

 どこまでも広がっていた優美な庭は、崩れかけたついべいに囲まれたれたわびしい庭に。すいれんく中をこいが泳いでいた池は、よどんで緑ににごっため池に。

 結界が解けて現実にかえった世界にあったのは、れ果てた小さなあばら屋だった。せんの男が暮らしていたのはとうげんきようのようなだいていたくではなく、強力な幻術と空間断絶の効果を持った結界で囲われた小さな世界の中だったのだ。

 黄季だって退魔師の端くれだ。最初に池に落ちた時から、この世界のカラクリは理解していた。

 同時に、思ったのだ。こんなに世界に独りでいる彼には、きっとそうしていなければならない深い事情があるのだろうと。

「それでも貴方だって、俺が守るべき存在だと思うから」

 せんせんしようの退魔師は、己のれいりよくと術をもつて民をやみから守る者。

 たとえ仮に彼が黄季よりも強大な力を持っている存在だったとしても、自らの意志で戦う道を選ばなかったのであれば、守るべき民であることに変わりはない。

 きっとせんぱいや上官に聞かれたら、判断が甘いと𠮟しつせきらうことになるだろう。使える武器を使わず、切れる札を切らないというのは、大乱を経験した世間の道理には合わないということも分かっている。

 それでも、黄季はその判断をひるがえすつもりはなかった。

「俺、戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を、つくりたいんです」

 黄季は一瞬だけ男の方を振り返って、笑ってみせた。もしかしたらそのがおは引きっていて、れいに笑えてはいなかったかもしれない。

 それでも、彼に笑顔を向けたかった。安心してほしいというよりも、『貴方はそれでいいんです』というこうていを伝えたかったから。

「理想論だってことも、世の中そんなに甘くないってことも、分かっています。でも俺、先の大乱を経験して、心底本気でそう思ったんです。だから俺、ヘッポコでもがんってます。……それに、今回のあいつ、何か俺がここに呼び込んじゃったみたいだし」

 そんな黄季を見た男はゆっくりと目を丸くした。死人のようなふんも人形のようなかたさも消えた男の顔は、今まで見てきた中で一番幼く見える。

 ──あ、俺、今の顔が一番好きかも。

「勝手な印象ですけど、貴方はもう何もかもと戦いたくないから、ここにいるんですよね? 戦わなくてもいいこの世界から連れ出されたくなかったから、俺とかかわりたくなかったんですよね?」

 この男は、今までに一度だって黄季に危害を加えようとしてこなかった。おそらく彼は黄季を叩きのめそうと思えばそくに実行できるだけの技量を持っていて、黄季は彼の支配領域の中にいきなり現れたしんしやだったにもかかわらず、だ。

 ただ単純に相手にするのがめんどうだっただけなのかもしれないが、それでもつうだったら連日しつこく現れる不審者は『叩き出す』ではなく『叩きつぶす』という対処をしていてもおかしくなかったはずだ。それでも彼がその道を選ばなかったのは、『交戦する』というせんたくが彼の中に最初からなかったからではないだろうか。

 ──それに、あの目。

きよぜつ』と表現するには気力が足りず、『死んだ魚のような』と表現するには美しすぎる、あの光を失ったひとみ

 ──あれは、死ぬ気力さえなくなった人の目だ。

 大乱の折に、黄季はあんな目をした人をたくさん見てきた。自分の周囲はおろか、自分自身にさえ関心がいだけなくなった人間が、ああいう目をしていた。

 かつての自分もそんな目をさらしていた時期があったと、黄季は自覚している。何もかもとの関わりを断ち、ただきよにたゆたっていたいと願うその心情が、黄季には痛いほどに分かる。

 ──だからこそ。

「俺には、貴方がそう望んでいるように思えたから」

 体が震える。正直言ってこわい。勝てる目算なんてない。もしかしたら殺されてしまうかもしれない。

 だけど、引けない。

「だから、おせつかいかもしれないけれど。……貴方が戦わなくてもいいように、俺が戦います」

 聞く人によっては、『自己せい』や『理想論』と鼻で笑われる黄季の決意。

 だけどだれに何を言われたって、黄季が退たいとして戦う道を選んだ理由が、ここにあるから。

「だから貴方は下がっててっ!!」

 黄季がさけぶのと同時にようかいほうこうひびく。ビリビリと震える空気に負けることなく黄季は両手を打ち鳴らした。最初は妖怪の咆哮にき消されていた開手の音は数を重ねるとだいに強く響きわたるようになる。しようが祓われているしようだ。

「『このぶきは天の息吹 とこの闇はらう日の息吹』っ!!」

 次いでじゆつむぎながらふところに入れていた石を取り出し、次々と池の向こうに向かってなげうつ。すべて印を刻み、一度黄季の力を通した呪石だ。力を通されたことで黄季の霊力の欠片かけらを宿した呪石は、それぞれをつなぐように光を発しながら黄季がねらった地面にめり込んでいく。

「『息吹わたる大地にけがれなし この地を穢れは渡ることなかれ じようへき』っ!!」

 呪石と池のふちを使って編まれた結界は即座に光のかべを築き上げた。地をった妖怪がこちらに向かってとつしんしてくるが、結界に角が当たったしゆんかん壁にはばまれたかのようにその足が止まる。

「……っ!!」

 ──でも、これでできるのは足止めだけ……っ!

 結界をこわそうと暴れる妖怪の様子を観察していた黄季はその勢いに奥歯をめた。流れ落ちる冷やあせが止まらない。妖怪はただ闇雲に突進をり返しているだけなのに、それだけで結界面がらいでいるのが分かる。やはり黄季の技量には余る存在なのだ。

 結界を壊される前に何かこうげきの手を用意しなければならない。それは分かっているのだが、あの勢いに勝てるしゆを自分が編めるのかという迷いが黄季ののどまらせる。

 ──でも、やるっきゃない……っ!!

 かくを決めて、懐にしまっていた数珠じゆずを両手にからませる。同時に、後ろごしかくすように帯びた『最終兵器』の存在を意識した。

 ──やれるか分からないけど、こんなことになってんだからったことは……!

 奥歯を噛み締め、足元からい上がるように絡みつくきようしんを打ちはらう。

 その瞬間、黄季の視線の先で、一瞬、妖怪の動きが止まった。

 おくれて黄季のほおのすぐ横を通り過ぎた風がかみを揺らす。

「……え?」

 黄季のほうけた声は妖怪のぜつきように掻き消された。よく見れば妖怪のけんには小さなもののような物が深々とき立てられている。

 さきほどまでは確実になかったものだ。妖怪のきよたいに比べたらあまりに小さすぎる武器なのに、妖怪はまるでめいしようを負ったかのようにもだえ苦しんでいる。

「こうなったのは、別にお前のせいではない」

 とつぜんえんおどろく黄季の背後で、コツリ、コツリと静かな足音が響いた。すずやかな声が、今までよりもずっと近い場所から聞こえてくる。

「確かに、お前が結界をすりけられたのは、お前が知らずに持たされていたじゆが原因だろうが」

「え?」

「お前の帯飾り、細工がされている」

 り返ると、すぐ後ろに男が立っていた。立ち姿を初めて見たが、黄季よりも頭ひとつ分近く背が高い。スラリとしていて、思っていたよりも線は細くなかった。現場に立つ退魔師のような実戦的な筋肉がついていることが気品のある立ち居いだけで分かる。

「え? 細工?」

 スルリとばされた男の手が黄季のこしに巻かれたかざりにれる。

 くろほうの帯の上に締められたあかのうの帯飾りは、泉仙省せん所属を示す身分証だ。泉仙省泉部に配属された時に泉部長官からされる物で、新人ならば誰でも同じ物を下げている。特に変わった物でもなければ、最近手にしたものでもない。

「……なるほど」

 黄季の頭上にはもんがいくつも飛んだが、男には帯飾りに触れた数秒で何もかもが理解できたらしい。つぶやいて手を引いた男はうつすらと眉間にしわを寄せている。

「……まぁ、いい。結界に穴を開けたのはお前だが、あの妖怪はおそらくそもそもこのしきを目標にしていたモノだ。いくらでもいてくる割にこの場所に辿たどり着くこともできず、都の中を彷徨さまよい続けている内に、いんの気を吸って雪だるま式にここまで育ってしまったといったところだな」

 ──え? 何か今『全部分かった』みたいなふんかもしたくせに、俺の佩玉うんぬんに関しては説明しないつもり?

 男が疑問を生むだけ生んで解説する気がないことを察した黄季は、思わず何とも言えない目で男を見上げた。だが胸中には少しだけ、男の言葉にあんしている自分もいる。

 ──でも、俺のせいじゃないって、その部分は説明してくれた。

 だがそんなかすかな安堵は、となりに並んだ男が口にした予想外の言葉にき飛ばされた。

「お前の心意気にめんじて、援護してやる」

「えっ!? でも」

「お前は大口をたたいた割に実力が足りん。……ただ、その大口の内容は気に入った」

 ──気に入った、って……

 黄季が目をみはった先で、男はひたと妖怪に視線をえていた。ただそれだけでゾクリと背筋をふるわせるようなれいりような空気が場に張り詰める。

「……戦わなくていい、と」

 ふと、男が呟いた。いきに混ぜるように紡がれた声は、あるいは音に乗せている自覚さえなくこぼれた独白だったのかもしれない。

「そう言われるだけで、ここまで心が救われるとは」

 ──……この人、

 そこに込められた色が分からない感情に、黄季は思わず男の横顔を見つめる。

 だが黄季が何かを口にするよりも男がスッと目をすがめる方が早かった。男のひだりうでするどく振り抜かれ、放たれたやいばが次々と妖怪に突きさっていく。

「私はゆえあって直接術を振るえない」

 男が打ち出しているのはりゆうようとうと呼ばれる小刀だった。せんたんに呪符を結んで呪具にする退魔師もいると聞いたことはあったが、打つのが難しくて使いこなせる人間はあまり多くないという話だ。黄季も実戦で使っている人は初めて見る。

 ──それをあんな正確に、暴れる妖怪に打ち込めるなんて……!

「どんな攻撃でも、必ずお前の術がヤツに通るように道を作ってやる。だからお前が仕留めろ」

 驚く黄季の視線の先で最初に額に入った刃は、次いでに打ち込まれ、最後には胸、鳩尾みぞおち、下腹に正確に打ち込まれた。まるで曲芸を見ているかのようなあざやかさだ。

「お前は、お前が知っている攻撃呪の中で一番強いものを打て。必ず成るように、必ずあれに通るように、支えてやる」

 ──って、呆けてばっかじゃいられない!

 黄季は足をかたはばに広げて構え直すとパンッと両手を打ち鳴らした。一度広がった音が自分のところにもう一度つどうのを確かめながら、腹の底から声を張る。

「『これは天の声 天のいかり 天の裁き』」

 黄季が紡ぎだしたのはらいげき呪の中でもくつの攻撃力を持つ呪歌だった。黄季の技量とれいりよくではとうてい成せないしろものだ。

 退魔師がおのれの技量を上回る呪歌を紡いでも、世界のことわりこたえてくれない。むしろ応えてもらえない方が幸いだ。下手に術者の実力が足りていないのに世界が術師に応えてしまうと、最悪の場合足りない霊力を補うために己の命やたましいけずられることになるのだから。

 だけど、今は。

「『あめつちつらぬてんけんの刃をわれに下賜したまえ』」

 黄季の言葉を笑うことなく受け止めてくれたこの人の、その心に、心意気に、応えたい。

「『ごうらいてんこう らいていしようかん』っ!!」

 黄季の絶叫とともに男の指先が舞う。ブワリと空間に満ちた霊力が黄季のじゆに乗って天にのぼる。天と妖怪と地を真っぐに貫く気脈がめぐる。

 それが分かった瞬間、黄季の五感は目の前でさくれつした白いせんこうごうおんに叩かれて焼きくされていた。

 ……その瞬間から、一体どれだけがった後だったか。

「……ここで『轟来天吼』を選ぶ辺り、お前の度胸の良さを感じるな」

 黄季の五感を呼び覚ましたのは、変わらず涼やかな男の声だった。

 ハッと我に返って目をまたたかせれば、ようかいの姿はすでになく、池の向こうにはげた大地が広がっていた。ただでさえくずれかけだったついべいがさらに崩れていて、もはやへいの役割を果たしていない。

「……たおせた?」

 ──俺が? あんな大物の妖怪を?

 信じられない気持ちで男を見上げると、変わらず黄季の隣に立っていた男は無表情にじやつかんあきれを乗せた顔で黄季に視線をくれた。

「あれで倒れない妖怪だったら、最初からもっと問題になっていると思うが?」

 つまり、とうばつかんりよう、ということだろう。

 黄季は相変わらず信じられない気持ちで己の両手を見つめた。だんの己では決してあつかいきれない量の霊力が通った両手は、今まで感じたことがない心地ここちよい熱に包まれている。

「すっげ……」

「お前、度胸はいいが、霊力の巡らせ方に難がある」

 涼やかな声とゆるやかな足音に振り返れば、男が椅子いすに帰っていくところだった。黄季が最初に張った結界が功を奏したのか、あれだけの雷撃が落ちたのに屋敷にがいはなかったらしい。あばら屋に似つかわしくない優美な寝椅子に体を預けた男は、再び煙管キセルを手に取る。

「そこを改善すれば、伸びしろはまだあるだろうな」

 ──あれ、これって……

 どう聞いても助言にしか聞こえない言葉に黄季は目を瞬かせる。そんな黄季に気付いていながら、男は黄季をつまみ出そうとしない。

「っ……あのっ!」

 そんな男に向かって、黄季は期待とともに口を開いた。

「こ、こんなにめいわくかけた上で、こんなこと言うのもあれなんですけど……っ!」

 男の氷のようにすずやかで、優美で、りんとしたひとみが黄季を流し見る。その瞳はまだ退たいはいてきで、感情の色はうすいが、黄季をきよぜつする空気はなかった。

「俺、またここに来てもいいですかっ!? 今度は自分の意志で……っ! あ、その、それでっ! ご、ご迷惑でなければでいいんですけど……っ!!」

 ──退たいとして助言とかしてくれないでしょうか……っ!?

「……またこの屋敷に、お前が来られたら、な」

 最後まで言葉を続けることはできなかった。

 ちゆうで言葉を差し込まれたから、というのもあったけれども。

「まぁ、お前とは、この先、いやでもえんが続いていきそうな気はするが」

 ソヨリ、と。

 氷で作られた大輪のたんのようなじんが、そのうるわしいくちびるはしを微かに持ち上げたような気がしたから。

「……っ、名前っ!! 名前教えてくださいっ!!」

 男が軽く煙管の先をる。本日の強制退場の合図を見た黄季はあわてて口を開いた。急に立ち込めたもやの向こうで、男がきよかれたかのように口元を躊躇ためらわせたのがかろうじて視界に映る。

「……りゆう

 あ、はじき出される方が早いかも、とあきらめかけたしゆんかん、ポツリと声が聞こえた。

「昔、私をそう呼ぶ人もいた」

 声が、消える。

 その時には黄季はいつも通りはんな通りにほうり出されていた。今日は王城にほど近い大通りの角だ。『討伐完了の報告に行ってこい』という彼なりのづかいなのかもしれない。

 ──『そう呼ぶ人もいた』ってことは……本名じゃなくて、あいしようとか、二つ名とか、そんな感じなのかな?

 それでも『彼』を呼ぶ名前を知った。

 モノをしばり、定義する、一番基本のしゆ。退魔師は『名前』が持つ力をよく知っているからこそ、気に入らない相手にはたとえ簡単な呼び名であっても名乗ることはない。

「氷柳さん……氷柳さん、かぁ……」

『戦いたくない人は戦わなくてもいい世界をつくりたい』という黄季のたいげんそうを、彼は笑わなかった。それどころか、手を貸し、また彼のもとおとずれることを許してくれた。

 そんな彼が、名を呼びたいという求めを拒絶しなかった。

 そのことが、この上なくうれしい。

「今度も会ってもらえるように、ちゃんとしゆぎようしなきゃな!」

 声に出してつぶやいて、ひとつ大きくびをする。

 それから気合いを入れるためにりようほおを軽くたたいて、黄季は報告に向かうべく王城の方へけだした。


    ● ● ●


 ふと、空気がふるえるのを感じた男は、筆の動きを止めた。

 筆を筆置きにもどして空気の鳴動に気をます。男の意識に引っかかった鳴動は小さく、すぐに消えていったが、一度欠片かけらつかんでしまえばその行方ゆくえを追うこともたやすい。

「……そうか、鷭黄季が見つけてくれたか」

 せていた瞳を上げた男は、小さくめ息をついた。その唇の端には苦みをふくんだみがかすかにかんでいる。

「あの日から八年、俺が泉部を預かるようになってから五年、か。……ったく、ずいぶん骨を折らせてくれたもんだぜ」

 だれもいない部屋に、男の独白だけがひびく。

 そのいんにしばらく耳を澄ました男は、静かに部屋のすみに視線を流した。

 まどぎわに置かれたたくの上には、ばんせられている。対局の途中のまま放置された碁盤の上には、白と黒の石が散らばっていた。

「……見つけたからには、がさない」

 呟いた唇が、りようたんり上げる。

「嫌でもたいに上がってもらうぜ」

 満足の笑みを浮かべたせんの長は、あふれんばかりの感情を込めて、求め人の名前を言の葉に乗せた。

「なぁ、りようれい……?」

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