壱①

 そうていが御代八年。

 先帝から玉座を継いだ若き皇帝のもとの都の復興は進み、人々はつつがなく日常生活を取りもどしていた。

「……って、なおに言えれば良かったんだけどなぁぁぁぁあああああっ!!」

 そんな都のかたすみを、おうは胸中の不満を力いっぱい叫びながら全力しつそうしていた。

 両側にはどこまでも続くついべい。後ろにはよだれを垂らしながら全力で黄季を追いかけてくる化け物。絵にいたように分かりやすい危機である。

「なんっでこんな大物のようかいが出てくるかなぁっ!? なんっっっでせんぱい諸氏がいつしよにいない時に限って出てくるかなぁぁぁっ!?」

 叫びながらチラリと後ろに視線を投げれば、牛の頭におにの体をした妖怪が相変わらず黄季を追いかけてくるのが見えた。黄季が退魔師のはしくれでなかったら、四つ角でバッタリ出会った瞬間に食い殺されていた可能性が高い。

 ──都のただ中でこんな目にうとかどーゆーこと!? 太陽が中天にかがやく真っ昼間なのに!

 新人退魔師であることを示す黒いほうひるがえし、ただでさえくせが強くてよくねる色が明るい髪をさらに跳ねさせながら、黄季はひたすらどこともつかない路地を疾走していく。こしに巻いたきゆうてい退魔師であることを示す帯飾りが、こんな時ばかりはうつとうしい。そして曲がりなりにも宮廷退魔師の格好をした自分が、すべもなく妖怪に追われてげ回っているという現実が情けない。

 ──それだけ今の都の陰の気がひどいってことなんだろうけど……っ!

 った陰の気は、人々のおそれや悲しみ、もうしゆうこうかいといった負の感情を吸い上げ、妖怪を生む。

 先のいくさたいとなったこの都では、数多あまたの命が無下に散らされた。さらに都そのものも焼き払われた上に、再建された都には戦を生き延びた人々が暮らしている。つまり大量の人死にといういんねんのある土地で、その因縁の当事者達が生活している状態だ。

 そういった場には陰の気も人々の負の感情もまりやすい。それらをてき浄化し、妖怪の発生を未然に防ぐのも、宮廷退魔組織・せんせんしようせん所属の退魔師達の重要な仕事である。何をかくそう今の黄季がその任務の真っ最中であった。

「いやでもこれは無理っ! 俺みたいなペーペーの二年次新人じゃ無理ぃぃぃっ!!」

 今日の任務は、泉仙省の下っ退魔師である黄季でも果たせる簡単なしゆうばつ任務であったはずだ。それこそ、未位階九位ド新人黒袍の黄季が一人で現場を任されても問題がないような。もっと具体的に言うならば、最近ほんのり陰の気がくなってきた土地のじようばつ作業であったはず。

 ──いやいやいやいや! 『浄祓じゆ唱えておけばとりあえず任務かんりよう!』みたいな案件だったじゃん、今日の俺の仕事っ!!

 元々新人の中でも落ちこぼれ気味である黄季に回されてくる仕事などたかが知れている。最悪の場合、浄祓呪を唱える口さえ動けば、っ立っているだけでも終わるような任務であったはずだ。黄季を送り出した先輩達も『万が一にも命の危機におちいる余地などない現場だから、お前一人でもだいじよう』とたいばんしてくれた。

 だというのに、なぜ今自分はその現場に辿たどり着くよりも前にこんな事態に陥っているのか。

 ──何か対策を取らないと! いつまでも追いけっこなんてしてらんねぇし……!

 それにこんなことをしていたらいつただびとが巻き込まれるかも分からない。いつぱん人にがいを出すことはおのれの命と引きえにしてでも防がなければならないことだ。

 ──いや、俺自身だって死にたいわけじゃないんだけども!

 そんなことを思う黄季の視界の先に、運がいいのか悪いのか道のどんまりの光景が見えてきた。

 路地の突き当たりにあったのは、いかにもいかめしい石造りの門だった。見ただけで重たそうだと分かるもんはピシリと閉じられていて開きそうにない。道は真っぐにその門に続いていて、ほかに逃げ込めそうな場所はどこにもなかった。

 ここまで一本道だったことから考えると、もしかしてこの道は両側に広がっているしきの中に入るためのげんかん路だったのだろうか。別々の敷地だと思っていた両側は、実は同じ屋敷の敷地だったのか。都にこれほどの土地を持てるとは一体どんなお貴族様が住んでいるのか。くうぅ、うらやましい。

「……って! そんなこと考えてる場合でもないっ……よなっ!」

 良くも悪くも腹をくくるしかないじようきように陥った黄季は、ふところに隠し持っていた数珠じゆずつかみ取ると右手にからめて持った。数珠玉がこすれてジャラリとにぶい音がひびく。だが残念なことに背後の妖怪がその音にひるんでくれた気配はなかった。

 ──今、この状況で使えそうなじゆはこれだけ……!

 奥歯をみ締めてける足に力を込める。少しだけ速度が上がった分、わずかに妖怪との間合いが開いた。

 ──これで!

 そのすきに門の屋根の下にすべり込んだ黄季は、地面を滑りながら体を反転させ、両手に数珠を絡めながら妖怪と相対する。

 ──むかつ!

 かかとと背中が門扉に当たって体が止まる。その瞬間目に飛び込んできたのは、どこまでも続く築地塀にはさまれた路地を、みにくい化け物がこちらに向かって真っ直ぐに駆けてくる光景だった。

「っ、『なんじ……」

 いつしゆんたじろいだ黄季の体が無意識のうちに後ろに下がる。

 その瞬間、背中にあったはずである門扉のかんしよくがフッと消えた。

 代わりに、トプンッとねんせいのある液体に体が包まれるような感触が走る。

 ──え?

 まるで、何かまくを突きけたかのような。そんなかんは本当に一瞬だけで消えていた。

 おどろきに目をしばたたかせた黄季の視界から、目の前の光景がき消える。吸い込んだ空気からは雑多な気配が消えていて、作りものめいたきんちようかんが張りめていた。

 だがその変化に驚いていられたのもまた、ほんの一瞬だけだった。門扉とをすり抜けた黄季の体は、そのまま無防備に背後へたおれ続ける。

「へぁっ!?」

 さきほどまで確かに門扉が黄季の背中を支えてくれていたはずなのに、今の黄季の背後には支えになる物が何もない。とっさに体勢を立て直そうと足が後ろに下がるが、なぜかその先には地面さえもなかった。

「ふぉっ!?」

 完全に体を支えきれなくなった黄季は、ちゆうはんな体勢のまま為す術もなく後ろへ倒れ込んだ。バシャッというごうかいな水音とともに視界と呼吸がうばわれ、ようやく自分が池に落ちたのだと気付く。

「バッ!? ゲホッ……ゲホゲホッ!!」

 幸いなことに、池の水深はそこまで深くなかった。必死に池底をくつうらで確かめて立ち上がれば、水面は黄季の腰辺りまで下がる。この水深だと逆に後ろ向きに頭から落ちたのに池底に頭をぶつけなかったことの方が幸運だったのかもしれない。

「ゴホッ……ゲホッ、コホッ……」

 ──……ここは?

 呼吸が整ってきた黄季は、周囲に視線をめぐらせた。

 黄季が落ちたのは、広大な庭の中にしつらえられた池のようだった。どこまでも果てなく続く庭は美しく手入れがされていて、れんな花々がほこっている。

 妖怪の姿もなければ、黄季が背中を預けた門扉もなかった。それどころか、あんなに厳めしくそびえ立っていた門も、その左右を固めていたへいさえもが黄季の視界の中に存在していない。庭園の先はそのまま森にでも通じているのか、かすかにもやがかかった景色の先はあいまいに緑の中にけ込んでいる。

 外と内、というがいねんを生じさせるしろものが、わたす限りどこにもなかった。確かに黄季は屋敷の外側の境界を示す位置にいて、ようかいたいしていたはずなのに、今目の前にはひどく静かで、長閑のどかな光景だけが広がっている。

 ──さっきの感触からして、術か何かで飛ばされたのか? いや、それよりも、あの感じから考えるに、多分結界か何かで……

だれだ」

 そんな景色の中に、不意に声が響いた。

 人の気配などなかった場所からいきなり飛んできた声に、黄季は池の中に立ったまま身構え、声の方をり返る。

 そしてそのまま、大きく目をみはった。

「私の庭に無断で立ち入った、お前は誰だ?」

 人が、いた。

 男だ。長くつややかなくろかみうこともなく背中に流した男。中性的な顔立ちが酷く美しく見えるのは、顔立ちが整っていること以上に表情が人形じみて見えるところに原因があるのだろう。生気に欠けた作りものめいた表情と生来の美しさが相まって、ヒトをちようえつした美しいに思えてしまう。

 庭に向かってゆかと屋根が張り出しただい椅子いすを置き、ゆったりとそこに身を預けた男は、白い中衣とくんだけを着付け、右手にえんをくゆらせる煙管キセルばさんでいた。姿勢も、えりがはだけた服装もだらしないはずなのに、それでもこうごうしいまでに清らかなふんがはるか海の向こうに住むと言われるせんによや仙神を思わせる。仙人と呼ばれる存在の中でも、ひときわ尊ばれ『せん』としようされる存在であるかのような。

 そうでありながら、黄季を見やったひとみには、光がなかった。すずやかに美しく、清らかでありながら、その瞳だけが世界のすべてにんでいる。

 ──この人……

きよぜつ』と表現するには気力が足りず、『死んだ魚のような』と表現するには美しすぎる。

 無理やり言葉に表すならば、退たいはいてき。そんな男のしつこくの瞳に、黄季は思わず息をむ。

 だが貴仙の方は、そんな黄季の心境を理解してくれなかったらしい。

「語る気がないならば、せよ」

 いつさい表情を変えることなく、男はついっと黄季に向かって手をばした。その指先が、何かほこりつまみ上げるかのように動き、フッとそのまま横へ振り抜かれる。

「……へ?」

 その一瞬でまた、黄季の視界に映る景色は変わっていた。

 耳に心地ここちよいざつとう。太陽の光と人々の熱気で陽の気が活性化している。この土地の気が良い巡りをしているしようだ。

 それもそのはずで、黄季が立っていたのは都最大の市が立つ西さいいんおおの一角だった。せいじやくに包まれた庭も、しゆうあくな妖怪も、……貴仙の男も、どこにもいない。

「……俺、夢でも見てた?」

 だが夢と言うにはみように呼吸が苦しくて、何よりまとったくろほうがグッショリとれたままで重かった。当初黄季が現場に向かうべく歩いていた地点からも遠くはなれている。

 ──これは確実になぁ。

 すいてきを垂らしながらぼうぜんと立ちくしている自分にチラチラと通行人からしんそうな視線を向けられていることに気付いた黄季は、元いたてんかげからさらに後ろへ下がると細路地の陰に身をかくした。飛ばされた先がまだ人目につかない場所だったからこの程度で済んでいるが、もし仮に人々の目につくつじのど真ん中などに飛ばされていたら、ちょっとしたさわぎになっていたかもしれない。

 ──……まぁ、治安的にも気の巡り的にも絶対安全な場所を選んで、かつ人目につきにくいように飛ばしてくれてたんだとしたら、……まだ親切な方、だよ、な……?

 考え込んでいたって仕方がない。退たいなんて仕事をしている以上、不思議な体験のひとつやふたつはあるものだ。

 あの妖怪がどうなったのかという点だけは気がかりだが、正直あの場で黄季が対処を続けていたとしても返りちにされていた可能性の方が高い。ここは開き直って『あれだけの妖怪からげおおせられて、ついでにきよじつ入り乱れたれいなモノを見られたんだから運が良かった』と割り切り、もっとうでの立つ人々に対処してもらえるようにきっちり報告を上げておくべきだろう。

 そう考えた黄季は、術で簡単に衣服の水をかわかすと、本来の任務地に向かうべく足を進め始めた。

 ……その時は、それでこの不思議なえんも終わると思っていたのだ。

 その時は。




「……」

「えっと」

「…………」

「あの」

「………………」

ばん黄季って言います! せんせんしようせん所属の退魔師です!!」

「……それは昨日も聞いた」

 ──デスヨネッ!?

 ついに五日連続で池に落ちることになった黄季は、こわいほどに整った顔にジットリとした視線を向けられたまま顔を引きらせた。美人さんのジト目は常人のジト目より数倍痛い。池から出ることさえ許されないまま、問答無用で摘み出されなくなっただけまだマシなのかもしれないが。

 ──っていうか、五日目にしてようやく成立した初回の会話がこれって……

「あの……ほんと連日すみません。俺も、池にまりたくて嵌まりに来てるわけじゃないんですけども……」

 黄季はおずおずと両手を胸の高さまで上げると説明を試みた。

 三日目までは初日同様に問答無用で庭からほうり出されていたのだが、流れに慣れてしまった黄季は、一昨日おとといの時点で放り出されるまでの間に何とか名前を名乗ることに成功し、昨日は泉仙省泉部所属の退魔師であることを口にできた。それが功を奏したのか、単純に男の方が連日現れる黄季をたたき出すことにつかれたのか、今日は今のところ問答無用で追い出される気配はない。

「えっと……しゆうばつ任務の現場に向かおうとすると、なぜか毎回妖怪にそうぐうしてしまって、逃げていると必ずここに落ちてしまうといいますか……」

 初めて遭遇した時と同じように、庭よりも数段高い場所にある露台に置かれた寝椅子に体を預けたまま黄季の言葉を聞いていた男は、無言のまま不審そうにまゆをひそめたようだった。黄季も男と同じ立場だったら同じ表情をかべたと思う。

 ──いや、でもだってさ、本当にそういう風にしか言えないし……

 万年人手不足である泉仙省では、下っの黄季でも毎日現場仕事が回ってくる。任された仕事を片付けるべく都の中を歩いていると、どこへ向かっていても必ず現地にとうちやくする前に妖怪に遭遇し、逃げ回っている間にいつの間にかあの路地に迷い込んでいて、毎回閉じているはずのもんをすりけて池に落ちるハメになる。

 毎回現れる妖怪の姿はちがうのだが、いやなことに黄季ではちできないような大物ばかりということは共通していた。

 ならば腕の立つせんぱいいつしよに行動すればいいではないかという話になるのだが、残念なことに万年人手不足な泉仙省には下っ端退魔師に護衛を付ける人員的ゆうなんぞどこにもない。もとで長官に相談はしてみたのだが、案の定『むしろお前がキッチリ原因をってこい』とがおいつしゆうされてしまった。

 ──それができたらそもそも困ってないっつの!

「……心当たりはないのか」

 おくの中の長官に半ば八つ当たりをましていたら、涼やかな声が降ってきた。パチクリと目をまたたかせてみても、人らしき姿は寝椅子に体を預けた男以外に見当たらない。

「こうなるようになったきっかけに覚えはないのか、とたずねている」

 男は人形じみた顔にげんそうな色を乗せて黄季のことを見下ろしていた。

 間違いなく男から発せられている言葉に、黄季は思わず首をかしげる。

 ──今まで完全にじやものあつかいだったのに、意外なところに食い付いたというか、何というか……

 一体どんな心変わりなのだろうか、と黄季は思わず問いに答えることも忘れて男のことを見つめた。そんな黄季の様子に男はわずかに目をすがめると言葉を足す。

かんちがいするな。私はお前にこのへいおんを邪魔されたくないだけだ。何度摘み出しても変わらないなら、根本を断つしかないだろう」

「あ、そーゆーこと……」

「何かをもらった。どこかへ行った。いつもと違う行動をした。……何か思い当たることはないのか」

「何かって言われても……」

 黄季だって退魔師のはしくれだ。こんなことになっているのには何か原因があるはずだと考えなかったわけではない。

 ──というか、この人、考え方がすごく退魔師っぽいな……

 考えをめぐらせながら黄季は男をながめ続ける。男は不機嫌そうな表情を向けながらも黄季の言葉をりちに待ってくれているらしい。手ににぎられた煙管キセルから、男に吸われるはずだったえんゆるく立ち上っていく。

 ──にいるくらいだし、ヒトじゃないか、同業者かなとは思ってたけど……

 なんてことをひっそりと考えていたら、男のけんに刻まれたしわが深くなった。どうやら黄季が向けられた問いに対してしんけんに向き合っていないことに気付いてしまったらしい。

 ──これはマズい。

「こ、ここ最近はずっと現場・職場と職場・家との往復ばっかだったし、だれかに何かをもらったとか、ヘンな行動をしたとか覚えはないです! 誰かに何かを仕込まれたとか、のろいを負ったとかしたら、さすがに俺だって分かるはずだしっ!」

 あきれられたらまた摘み出されるかもしれない。それはもうかんべんしてほしい。

 その一心から黄季はあわてて口を開く。

「そもそも自分のじゆだってまともに持ってないのに……」

「呪具?」

 そんな黄季の言葉に男が反応を示した。

「呪具と言えばお前、そのこしの装飾は……」

 だが言葉はちゆうで切れた。

 男がハッと顔を上げる。このしゆんかん、男が『不快』以外の感情をあらわにしたところを黄季は初めて見た。

 貴仙のごとき顔に浮かんだ感情は『きようがく』。

 その表情の意味に、黄季は数秒おくれて気付く。

「なっ……!?」

 ゾクリと背筋をあわたせる冷気。

 よう。それも強大な。

 反射的に黄季は池の外に飛び出ながらり返る。

 その視線の先で、空が割れていた。

「っ!?」

 長閑のどかで静かな庭が広がっていた空間が鏡を割るかのようにひび割れていた。その向こうからぬっと太いうでが入り込んできてさらにヒビを大きくしていく。

 大きく割りくだかれた景色の向こう側から姿を現したのは、初めてこの庭に落ちた時に黄季を追い回していた牛の頭におにの体をしたようかいだった。黄季を見つけた妖怪は常に半開きになっている口からボタボタとよだれを垂らしながらかんたけびを上げる。

 その光景にサァッと黄季の血の気が引いた。

 ──まさか、俺が連れてきちゃったのか……!?

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