馬鹿と煙
昼川 伊澄
馬鹿と煙
「高校生!?」
だだっ広いだけの真昼の空。まだ理性的な仕事をしている人たちの手が行き届いていない廃ビルの屋上で、煙草に火をつけた時だった。
私服で居たら煙草くらい買わせてもらえる見た目の私は、その日は久しぶりに高校の制服を着ていた。
「うるさいバカ」
端的な暴言は口当たりが良くて気持ちがいい。この煙草とは大違いだ。短く吹いた煙が高く高く登ると、秋めく風と通行人の衣替えだけが、コンクリートに囲まれたこの地になけなしの季節感を作り出していた。
私に声をかけた奴は2メートル程の距離を開けて隣に座ると、コンビニの袋をがしゃがしゃと広げた。この廃ビルの向かい側の道にある飲食店の制服を着ていて、胸には若葉が鮮やかに芽生えている。かなり年上に見えるがきっとアルバイトのホールスタッフだろう。髪型は当たり障りなく、顔色が悪くてなんとも頼りなさそうな薄い体躯。その割に突然スイッチを切り替えたように声は大きい。そこまで高くない廃ビルであるにしても、わざわざ仕事中に屋上まで登りに来るなんておかしな奴だ。
「この辺りに高校無いよね?どうして居るの?」
「いや、学校の近くに居たらバレた時に面倒だし……。」
「あぁ、そうか!」
そうか、そうだよなぁ。男は口の中でもごもごと繰り返しながら、また忙しなくビニール袋を漁る。時々手を止めたと思うと、少し考えてまた何か動き出す。急に会話が無くなったことがなんだか落ち着かなくて年齢を尋ねると、男はぴたりと手を止めて「27だよ。」と大きな笑顔で言った。間の抜けた声ながら、それはほんの少し不気味だった。
「高校へ行かないの?」
それは躊躇など微塵も無い聞き方だった。二度と会わないだろうからと丁寧さを抜いた会話をしていた私とは異なる、更地のような善良さすら感じた。指先を動かして先端の灰を落とす。遠い地面にはらはらと欠片が飛散していく。
「みんな頭のレベルが低くて駄目。」
「……学力が合わないってこと?」
「違うわよ。」
「……君の頭が良いってことか!」
ふと強く短い風圧が通過する。スカートを押さえつつ目を細めていると、ビニール袋の中から新品の手帳が滑り出してきた。男は、先程の風圧では自分の耳を両手で塞いだだけだった。地面の手帳を拾い上げて男へ返すそのとき、若葉の胸ポケットの中に既に手帳が入っているのが見えた。男は、風が止むとすぐに再び私へ疑問そうな顔を向けたため、私は丁寧に答えてあげた。
「ちょっと目立つ顔してるとハブられるの。そういう事を普通にして来るから、頭のレベルが低いの。」
強そうな見た目だから強いなんて、そんなの願望でしか無い。しかし、こうあって欲しいという妄想や噂は繰り返されていくうちに真実になってしまった。ただ少し皆よりも濃く目立つ顔立ちであっただけなのに。私と会話をする人がいなくなっていったと同時進行で、私も私自身と会話をしなくなった。その代わりに、私が吸っていそうな煙草を考えて買っては学校をサボってここへ来た。
「煙草するならお酒も飲むの?」
男が手帳を受け取った姿勢のまま問う。私は少し目を逸らす。
「……飲まない。なんかちょっと怖くって。」
余計なことを付け足した自覚があった。本当に久しぶりに私は私のことを考えた。
「分かるかも、それ」
「え?」
「お酒って怖いよね、なんか、うん、分かる」
軽薄なその共感らしき言葉は不思議な程にすんなり私をあたためた。煙草はいつの間にか手から落ち、煙の匂いだけが私の周りにまとわりつく。男はその匂いにも嫌な顔はしない。
「煙草も本当は……」
私がそれを零した瞬間、男は胸ポケットに既にあった手帳を手触りで認識して、悲しそうにため息をついた。
まもなく携帯が鳴った。男は震えながら、手に持ったふたつの手帳をバラバラと地面に落とす。それは、アルバイトの店からの早く戻って来いという電話だった。
勝手な外出はするな、
この時間帯に何考えてるんだ、
優先順位が分かんないのか、
他にも沢山の箇条書きの叱責と呆れも漏れ聞こえてきた。大の大人の男の口からひたすらに繰り返されるごめんなさいの中に、酷く幼い子供の姿が見える。
こんな真昼に飲食店のスタッフが休憩を取れる筈がない事くらい私は気づけていた。
男から落ちた手帳を拾う。ものすごく細やかに、真面目に、ひとつひとつの仕事の仕方がメモされている。同じ機械の動作手順を何度も何度も、同僚の名前を何度も何度も、世の中の行間を懇切丁寧に何度も何度も。
「バカだよなぁ、俺は、なんでこんなにずっと、バカなんだろうなぁ」
冷ややかな風が、正午の太陽の笑みを奪っていく。地面の煙草の火が完全に終える。
廃ビルの向かい側にある飲食店の制服が、地上から私たちを見つけて指さしていた。
馬鹿と煙 昼川 伊澄 @Spring___03
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