第5話

 ひとしきり泣いた俺の心は一気に軽くなっていた。

 泣いたことによって、心のどこかに挟まっていた何かを取り除くことができたのだろう。


「少し表情が明るくなりましたね」

「……そうだな」

「やっぱり感情の赴くままに泣くというのは大切ですね。ところで本当に友達になるだけでよろしいのですか? こちらとしてはそれ以上のことを望まれれば勿論お望み通りに致しますし、恩返しが友達になるだけだと私のお父様も黙っていないとは思うのですが……」


 言葉遣いも丁寧で家柄が良さそうなのは察しが付くが、恩返しが友達になるだけだと黙っていないお父様とは一体どんな人物なのだろうか。怖い人じゃないといいけど……。


「それだけだなんてそんな、友達が少ない俺からしたら友達になってもらうってのは大きなことだよ。女目線で元カノの愚痴とか聞いてくれると助かる」

「……わかりました。何かあれば追加でおっしゃっていただいて構いませんから。まずはお友達になるということで、今から私たちはお友達です」


 そう言って微笑みながら差し出してきた新屋敷さんの手を、俺は一瞬躊躇してから握り返した。

 新屋敷さんの手を握り返すのを躊躇したのは、俺が新屋敷さんと友達になってしまえば、新屋敷さんの人生を変えてしまうかもしれないと思ったからだ。


 俺と新屋敷さんは飽くまで車に轢かれそうになっていたところを助け、助けられただけの関係で、それ以上でもそれ以下でもない。

 それなのに、新屋敷さんを助けた見返りとして俺と新屋敷さんが友達になってしまったら、俺と新屋敷さんの関係は助け、助けられただけの関係ではなくなり、新屋敷さんの人生を大きく変えてしまう。


 俺にそんな権利があるのだろうか、そんなことをしでかしてしまっていいのだろうか--。

 そんなことを考えてしまったせいで、俺は新屋敷さんの手を握り返すのを躊躇したのだ。


 とはいえ、純花と別れたばかりの俺にとって、新屋敷さんのような優しくて人の痛みがわかる子が友達になってくれるのは願ってもいない話。

 そう考えた俺は、最終的に新屋敷さんの好意に甘え、新屋敷さんの手を握り返した。


「よろしく、新屋敷さん」

「そんな堅苦しくなくていいですよ。私もすでに瑛太さんって呼んでますし、心姫って呼んでください」

「わかった。……じゃあ心姫で」

「はい。よろしくお願いします。瑛太さん」

「そういえばなんで横断歩道渡ってるとき俯いてボーッとしてたんだ? いくら雨音が大きかったとはいえ普通に歩いてれば車が迫ってきてるのに気付来そうな気がするんだけど」

「あっ、えっとその、それは……」


 心姫の反応から察するに、横断歩道を俯きながらあるいていたのには何かしら理由がありそうだ。

 あれだけ雨が降っていた日に傘を刺していないのも違和感があるし、きっと何かあったのだろう。


 本人が言いたくないことなら、これ以上詮索するべきではない。


「ごめん、言いたくないことならいいんだ。話してもいいかなって思った時に話してくれれば」

「……本当に瑛太さんは優しすぎますね」

「これくらい普通だって」

「……ぁぁぁぁぁぁ!」


 俺と心姫が友達という関係になってすぐ、どこからともなく叫び声のような声が聞こえてきた。


「瑛太ぁぁぁぁぁぁ!」


 騒々しく病室のドアを開けたのは俺の母さん、矢歌詩子やうたうたこだった。


「ここ病院だよ母さん。もうちょっと静かにしデっ--!?」


 俺の言葉を完全に無視した母さんは、勢いのまま、先ほどの心姫と同じように俺に抱きついてきた。


「よかった……本当に良かった」


 ……そりゃそうだよな。自分の息子が車に轢かれて三日も意識を失い、三日後にようやく目を覚ましたとなれば飛びつきたくなるのも無理はない。


 心姫を助けられたのだから結果オーライではあるが、もしかしたら命を失っていたかもしれないような状況だったからな。

 母さんに心配をかけてしまったのだから、この先今回のように自分の身を挺して誰かを助けるなんてことはするべきではないだろう。


「……心配かけてごめん。でももう大丈夫だから」

「お医者様にそう言われたのなら安心ね。心姫ちゃんもありがとう。私がいない間もずっと瑛太のことを見ててくれて」


 荷物を取りに帰ったり、色々なことをしなければならない母さんに変わって心姫はずっと俺の側にいてくれたようだ。


 きっと面会時間で病院にいる時間以外も、不安でまともに眠れていなかったのだろう。

 そのせいで疲労を蓄積してしまい、俺が目を覚ました時に俺にもたれかかって眠っていたんだな。


「ありがとうだなんてそんな、私は謝罪をしなければいけない立場なのに……」

「何回も言ってるでしょ? 赤信号無視してきた車が悪いんだから心姫ちゃんは何も悪く無い。だから今は瑛太が目を覚ましたことをみんなで喜びましょ」

「詩子さん……」

「それより瑛太、純花ちゃんと連絡は取ったの? 私からも連絡したんだけど全く電話が繋がらなくて」


 ……そうか、母さんにも純花と別れたことを伝えなければならないんだな。

 純花とは幼馴染で小さい頃からの中なので、母さんも純花のことは知っているし、俺と純花の関係性も知っている。


 きっとショックを受けるだろうが、隠し続けるわけにはいかない。


「……ごめん。純花とは別れた」

「--別れた!? 嘘でしょ!?」


 母さんは俺と純花が別れた事実を聞き、大口を開けて驚いている。

 小さい頃から仲睦まじい姿しか見ておらず、このままいけば結婚は間違いないと思っていたはずなので、すぐには受け入れられない事実だろう。


 車に轢かれて心配をかけて、純花と別れたことを驚かせて、親不孝も甚だしいな。


「うん。俺とは別に好きな人ができたんだってさ」

「……そうだったの。泣きっ面に蜂とはこのことね。しばらくは入院になるだろうから、心身ともに回復するまでゆっくりしなさいね」

「ありがと。純花とは別れちまったけど心姫と友達になれたし、別れがあれば出会いもあるってことだよな。前向きに考えることにするよ」

「そうね。心姫ちゃんがいい子なのはこの数日だけでもよくわかったし、まだ先のことなんて考えられないだろうけど、もしかしたら心姫ちゃんと付き合ったりするかもしれないしね」

「ちょっ、母さん!? それはいくらなんでも心姫に失礼だろ。心姫からしたら俺なんてただ車に轢かれそうになってたところを助けてくれただけの男なんだから」

「助けただけ、ねぇ。お母さんにはそんなふうには見えないけど」


 そう言って母さんは心姫の方へと視線を送り、俺は心姫の方を見た。


「……?」


 しかし、心姫は咄嗟に顔を背けてしまう。


「す、すいません! せっかく家族水入らずの時間を邪魔しては申し訳ないので私はもうお暇させていただきます! また明日、お見舞いにお伺いしますね! それでは!」

「あっ--」


 心姫は突然慌ただしい様子を見せ、帰宅してしまった。


「どうしたんだ急に」

「……ふふっ。心姫ちゃんのこと、大事にしなさいね」


 そう言って微笑む母さんの言葉に「うん」とだけ返事をした俺は、心姫がいなくなってしまったせいか、少しだけ寂しさを感じていた。


 きっと俺が心姫に抱きつかれながら涙を流して気が軽くなったのは、心のどこかに引っかかっていた何かが取り除かれたからだけでなく、その穴を心姫が埋めてくれたからだったのだろう。

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