第6話

 雨音以外は何も聞こえないほどの大雨が降りしきる中、心姫はシュークリームを購入するため傘もささずに自宅から少し離れたコンビニに向かって歩いていた。


 悪天候の中、コンビニの手前にある交差点で歩行者信号が青に変わるのを待っていた心姫の頭の中に浮かんでいたのは、今日学校で起こった問題のこと。


 今朝心姫が学校に出て行くと、机に入っているはずの教科書類が見当たらなかった。

 昨日の放課後、明日使う予定の教科書は机の中に置いておこうと教科書を置いていき、それから机の中身は触っていないので、教科書がなくなったのはこの学校に出入りしている誰かの仕業で間違いない。まあ十中八九クラスメイトの仕業だろう。


 心姫は成績優秀、運動神経抜群、歌も上手く素行も良く先生たちからは非常に好かれているのだが、生徒からはというと先生たちからの評価とは真逆で、いじめの対象になってしまっている。

 いじめの対象になってしまった理由は、簡潔に言ってしまえば妬みだ。

 

 人は自分より才能を持っている人を妬む生き物である。

 そんな人間社会において優秀な人物がいじめられるというのは当然とまで言えるだろう。


 とはいえ成績が優秀なのは長い時間をかけて勉強しているからだし、先生から好かれているのは教室の掃除や花壇の花に水やりなどを率先してやっているからで、それなりの理由がある。

 そんな努力を見もしないで妬み、いじめをしているのだから救いようがない。


 心姫は現状には納得がいっていないし、なんとかこの状況を改善したいと思っている。

 そうしなければ最悪不登校になってしまう可能性だってあるのだから。


 しかし、現状を好転させる方法は心姫の頭の中には思い浮かばなかった。


「はぁ……どうすればいいんだろ……」


 そんな言葉を漏らしながら、歩行者信号が青になったことを確認した心姫は交差点に侵入した。


 刹那、突き飛ばされたような感覚が心姫を襲う。


 そして尻餅をつくようにして倒れていった心姫の目に写ったのは、心姫に変わって車に撥ねられそうになっている男の子だった。

 たった一瞬だったのにも関わらず、私の顔にはその男の子の全てを投げ出したような表情が焼き付いていた。



 ◆◇




 私は私を助けてくれた男の子と一緒に救急車に乗り、病院へとやって来ていた。

 車に轢かれそうになっていた私を助けてくれたのは矢歌瑛太さんという名前で、私と同じ年齢の男の子だった。


 しばらくして検診やら手術やらを終えてベッドのまま病室へと戻ったきた矢歌さんは、大きな外傷こそないものの、頭を強く打っているようで意識が戻らないとのことだった。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい。私のせいで、私がボーっとしてたしていたせいで……」


 どれだけ謝ってもこの人の意識が戻るわけではないが、今の私にはそうすることしかできなかった。


 それからしばらくの間、私は手を握り合わせて矢歌さんが目を覚ますように祈っていた。

 すると、母親だと思われる人が矢歌さんの病室へと入って来た。


「瑛太っ!」


 矢歌さんの母親は一目散に矢歌さんにかけ寄り、手を握った。


「--バカねっ。本当にこうなってまで言いつけなんて守らなくていいのに」


 言いつけ……?

 

 矢歌さんの母親はこの男の子に何を言っていたのだろうか。


「あっ、あのっ。矢歌さん、矢歌さんに--矢歌瑛太さんに車に轢かれそうになっていたところを助けていただいた新屋敷心姫と申します。この度は本当に申し訳ありませんでした!」


 私はこれ以上ないほど頭を深く下げ、全力で謝罪をした。


 私のせいで矢歌さんの大切なお子さんが車に轢かれてしまうことになったのだから全力で謝罪をするなんて当たり前だし、それをしたところで私は今から怒鳴られるのだろう。

 怒鳴られるだけならまだ良い方で、最悪の場合思いっきり頬を叩かれたり、頭をグーで殴られるかもしれない。


 そう思っていたのだが……。


「……そう。あなたが瑛太が助けた子なのね。……綺麗な子ね。その綺麗な顔に傷が付かなくて良かったわ。あなた名前は?」


「えっ、あ、心姫と申します」


「あら、言葉遣いがとっても丁寧ね。私は瑛太の母親の詩子よ。詩子って呼んでくれると嬉しいわ。よろしくね」


 よろしく、と言われても私には違和感しかない。


「あのっ、なぜ私を怒らないのでしょうか? 私を助けるために瑛太さんは意識が戻らない状態になってしまったっていうのに」


 詩子さんは私を怒るどころか、私の容姿や言葉遣いを褒めてくれた。

 それはどれだけ考えてもあり得ないことで、私は思わず質問をぶつけてしまった。


「いやいや、悪いのは赤信号を無視した車でしょ? 心姫ちゃんは何も悪くないわよ」


「そっ、そうかもしれませんが……」


「むしろありがとね、ちゃんと救急車を呼んで病院までついて来てくれて」


 詩子さんの言っていることは確かに正しくて、今回の事故で一番責任を負わなければならないのは赤信号を無視してきた車の運転手だろう。

 とはいえ、誰だって詩子さんの立場に立たされれば、ボーッとして信号無視の車の接近に気付かなかった私を恨むはずだ。


 それなのに詩子さんは私を恨むどころか、事故の後の対処をしたことにお礼を言ってくれた。


 私を助けてくれた瑛太さんといい、詩子さんといい、この家族はどれほど優しい家族なのだろうか。


「あの、お父様はいらっしゃらないのですか?」


「うん、ウチは十年以上前に旦那を病気で亡くしててね。だから私と息子の二人家族なのよ」


 それを聞いた私は尚更申し訳なくなった。


 もしこれで瑛太さんが死んででもいたり、このまま目を覚まさなかったら……。


「本当にごめんなさい!」


「いいのいいの。もう十分謝ってくれてるし、これで謝るのは終わりね」


「で、でも」


「いいから終わり。謝罪をしてくれるなら、今後も私の代わりにお見舞いに来てもらえると嬉しいかな。仕事で来れないこともあるだろうから」


「も、もちろんです!」


 こうして私は詩子さんと連絡先を交換し、これから毎日瑛太さんのお見舞いに行くことになったのだ。




 ◆◇




 逃げるように瑛太さんの病室を飛び出した私は、新屋敷家の使用人である三木優奈みきゆうなさんが運転する車に乗り込み自宅へと向かっていた。


「お嬢様、走って車まで戻ってこられたようですが何かありましたか?」


「い、いえ。なんでもありません」


「ならよろしいのですが、いつもと様子が違いましたので」


「ご心配おかけして申し訳ありません。先程電話でお伝えしたように瑛太さんは意識が戻りましたし、それ以降体の調子も良さそうなので心配するようなことは何も無いですよ」


 優奈さんに心配をかけたことを申し訳なく思いながら窓の外を流れる景色を見つめ、私はふぅっと息を吐いた。


 病室を出る直前、詩子さんの言葉に私は思わず顔を赤らめてしまい急いで病室を飛び出して来た。

 まさかとは思うけど顔が赤くなっていたことに気付かれてはいないよね……。


 瑛太さんは『車に轢かれそうになってたところを助けてくれただけの男』なんて言うが、瑛太さんが私を助けてくれたことがなわけがない。

 私は瑛太さんに命を救われたのだから、今後私の人生全てををかけて恩返しをしていかなければならないほどである。


 それなのに瑛太さんは自分のことを『車に轢かれそうになってたところを助けてくれただけの男』と言ってのける優しさを持っている人だ。

 車に轢かれそうだったところを助けられただけで瑛太さんに対する好感度は計り知れないというのに、自分が車に轢かれてしまった原因である私にたいして、そんな優しさを見せる瑛太さんに対する好感度は上限値を超えてしまいそうである。


 瑛太さんの優しさはそれだけではない。

 瑛太さんは自らの身を挺して私の命を救ったのだから、見返りとしてもっと色々なものを要求してもいい、それだけの権利が瑛太さんにはある。


 それなのに瑛太さんは見返りはいらないと言い、どうしても恩返しがしたいと渋る私を宥めるように、友達になってほしいと提案してきた。

 きっとその提案も私にできるだけ迷惑をかけないように、今すぐにでもできる恩返しを考えて提案してくれてたのだろう。


 これほど優しい人に私は出会ったことがない。

 

 恋愛対象として好きになったというにはまだ時期尚早すぎるが、意識をしてしまう対象になったのは紛うことなき事実だった。


 何より私が瑛太さんを意識してしまった要因は他にある。


 私が赤信号の交差点に侵入してしまったのは、学校生活の中で人間関係に悩みを持っていたからだ。

 そんな時に現れたのがあまりにも優しすぎる瑛太さんだった。


 人間関係に悩みを抱えていた私は、誰かに優しさを向けられることに慣れていないと同時に、優しさに飢えてもいた。

 そんな時に優しさを向けられた私は、言い方は悪いかも知れないが見事に付け込まれてしまったのだ。


「少し表情が緩んでいるようにお見受けできるのですが私の気のせいですか?」


「え、そ、それはその、瑛太さんの意識が戻って体調が良くなったのだから喜ぶべきことでしょう?」


「……それもそうですね」  


 時刻は二十時を回り、車内は街頭で照らされる程度でしっかりと私の表情を確認することなんでできないはず。

 それなのに私の表情が綻んでいる事が優奈さんに気付かれてしまうほど私は表情を綻ばせていたらしい。


 また明日から気を引き締めないと、瑛太さんに会っただけで表情が綻んでしまいそうだから。

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