第9話

「な、なんですかこのお金は!? こんな大金受け取れません!」


 俺が声を上げるよりも先に驚いたような声を上げたのは母さんだった。

 目の前に見たこともないような大量の札束を用意され、その札束全て受け取ってくれと言われているのだから驚いたような声を上げるのも無理は無い。


「これで一億円あります。正直これでも足りねぇくらいですけど、あんまりにも大金すぎると受け取ってもらえねぇかと思って一億円にしておきました。娘の命を救ってもらったんですから、この百倍の金額をお渡ししても足りねぇくらいです。どうか受け取ってください」


 この百倍って百億円だよな……?

 そんなことを気軽に口にできるなんて何してる人なんだこの人。


「いえ、瑛太の治療費は保険金も出てますし、お父様からお金を受け取るわけにはいきません」


「そう言わずに。このお金を娘を救ってくれた瑛太君のために使うのであれば罪悪感も無いでしょう?」


「瑛太は見返りを求めて心姫ちゃんを助けたわけではないと思います。なのでそのお金は絶対に受け取れません」


 母さんは何度言われても武嗣さんが渡そうとしてくるお金を受け取ろうとはしない。


 それと同様に武嗣さんも引き下がることは無く、武嗣さんは土下座の体勢のまま再び頭を下げた。


「この通り、受け取ってください!」


「絶対に受け取りません!」


 母さんは社交辞令的に大金を受け取るのを数回断り、その後で大金を受け取ろうとしているわけではない。

 本気でお礼と謝罪の意味で用意された目の前の一億円を受け取らない気でいるのだ


 母さん以外の人間が今と全く同じような状況に立たされたら、この一億円を受けとるという選択をする人が過半数を占めるだろう。

 自分の子供が他人の子供を身を挺して救い、意識を失って骨折までしているのだから、用意された一億円を受け取る権利は大いにあると思う。


 それに俺たち家族は俺が二歳になってすぐに父親を病気で亡くしており、その保険金で割と裕福な生活が送れてはいるものの、母さんがシングルマザーとして飲食店で働きながら俺を育ててくれているので、そのお金は喉から手が出るほどほしいはずだ。


 それでも母さんは武嗣さんが渡そうとしている一億円を頑なに受け取ろうとしなかった。


「なぜ受け取っていただけないんですか。私はどうしてもあんたたちに恩返しをしたいのに」


 そんな武嗣さんの質問に、母さんは一呼吸置いてから答え始めた。


「……瑛太が小さい頃に病気で亡くなった父親がね、まだ喋れもしない瑛太に『いつどんな時でも困っている人に手を差し伸べられる人間になりなさい』って何度も言い聞かせてたんです。だから私も瑛太にそう言い聞かせてきました。実際そんな子に育ってくれて親としては誇らしい限りですが、見返りを求めて手を差し伸べることはしてほしくないんです。それは本当の優しさとは呼べませんし、今回みたいに今すぐ手を差し伸べないと誰かに危険が及ぶって状況の時に『見返りがないなら助ける必要はないんじゃ--』なんて考えて手を差し伸べるのが遅れて手遅れになった−−なんてことにはなってほしくないですから。だからこのお金は受け取れません」


 俺は父さんがそう言っていたことなんて覚えていないし、そもそも父さんのこと自体あまり覚えていない。

 それでも家のリビングに飾られた家族写真を見れば、父さんが母さんから伝えられてきた言葉を言うような優しくて温かい人だというのは間違いないと確信できるし、父さんから母さんへ、そして俺へと繋がれてきたその言葉を大切にしたいと思っている。


 だから母さんの『一億円という大金を受け取らない』という選択には俺も大賛成だ。

 そうではないとしたら、心姫から『恩返しをさせてください』と言われた時に友達になってほしいなんて簡単な要求はしないからな。


 まあ今回心姫を助けたのはあくまで純花に振られて自暴自棄になっていたからで、父さんの言葉を守ったわけではないけど。

 とはいえその言葉が染み付いていたからこそ、咄嗟に取ることができた行動だったのかもしれないとも思う。


 実際こうして誰かが車に轢かれそうになっていて、助けようとするシーンなんて一度も出会ったことがないので、父さんの言葉が俺の中に染み付いていたのかどうか、その真実はわからないのだけど。


「そうですか……。どうしても受け取って欲しかったのですが……」


「お父様、それなら金銭以外で恩返しをするというのはどうでしょうか?」


 一億円を受け取ってもらえない状況に、心姫は代替案を提案してきた。


「金銭以外で?」


「はい。例えばですけど、骨折をしてギプスを巻いている瑛太さんの身の回りのお世話をさせていただくとか」


「……なるほど。お金と比べるとかなり劣ってはしまうが、何もしないよりはその方がいいな−−どうですか、お母さんせめて瑛太君の体が全快するまで面倒を見させていただくというのは。学校の送り迎えとか、病院への付き添いとか」


 話が進んでしまっているが、そもそも俺は恩返し自体いらないのだ。

 それでもどうしてもと心姫が言うので、友達になる、という簡単にできそうな恩返しを提案した。


 だから心姫が提案してきた身の周りのお世話というのも勿論してもらわなくていい。

 そう考えた俺は、しっかりお断りすることにした。


「いや、そもそも恩返しなんてしてもらわなくて−−」


「見返りは求めないと言いましたけどその提案は正直すごく助かります。私は仕事があるので、瑛太の学校への送り迎えが一番どうしようか悩んでいた部分だったので」


 え、母さん?


 見返りは求めないとか言いながらこの人すぐに心姫の提案を受け入れたんだが?

 さっきにこやかな優しい笑顔で語っていた父さんが残した言葉はどこに行ったんですか?


 まあそりゃ一億円に比べればかなり受け入れやすい恩返しではあると思うけど。


「わかりました。それでは全力でサポートします。気が変わったら言ってください。いつでもお金はお渡しできるので」


「お金は絶対に要求しません」


「よろしくお願いします。瑛太さん」


 そういう心姫に「あっ、ああ」とだけ返事をして、俺は心姫から恩返しとして、ギプスを巻いている間の身の回りのお世話をしてもらうこととなった。

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