第55話

 私は白い息を吐きながら、橋の上から指輪が投げ捨てられた川を眺めていた。


 今日はクリスマスイブ。


 そんな大切な日の夜に、それも瑛太さんからお誘いがあったというのにその誘いをドタキャンしてまでこんなところにやってきて、私は一体何をしているのだろうか……。


 最初は川に入って指輪を探すつもりで飛び出してきたが、息が白くなるほどの寒さの中で川に入るのは不可能と言っても過言ではない。

 それに、瑛太さんに探すなと言っておきながら自分は川に入って指輪を探すなんてこと、していいわけないよね……。


 クリスマスイブ、それはお父様がお母様に婚約指輪を渡した日。

 その日に入籍をしたわけではないので、クリスマスイブが結婚記念日というわけではないが、それでもお父様とお母様にとってはプロポーズをした、された、という思い出の詰まった大切な日である。


 そんな大切な日に、お父様がお母様に渡した大切な指輪は川の中にあって、私はその指輪を探すこともできずもう絶対に戻ってこないと諦め、橋の上から指輪が投げ捨てられた川をただ眺めることしかできないなんて……。

 自分が情けなくて、指輪が戻ってこないことが悲しくて、私の頬を一筋の涙が伝った。


「本当何してるんだろ、私……」


 瑛太さんの誘いをドタキャンしていなければ、今頃瑛太さんと二人で笑い合いながらお話ししたりしてるのかな。

 そう考えると、指輪のことなんて忘れて瑛太さんと二人で一緒に過ごしてしまえばよかったのではないかと思ってしまう。


 お父様とお母様の大切な思い出を蔑ろにしてでも瑛太さんと一緒にいたいと思っているなんて、私は冷たい人間だ。


「お父様、お母様。本当にごめんなさい……」


 そんなことを呟きながら、指輪が投げ捨てられてしまった川をじっと見つめる。

 流れは穏やかに見えるのにいつまで経っても指輪を発見させてくれないせいで、私の心は激流の中にいる。


 指輪が見つからなかったとしてもこの場所に来たら気持ちが晴れるかもしれないと思っていたが、晴れるどころか指輪がなくなってしまった悲しみは増幅していた。


「諦めたくないな……」


 諦めたくはないが諦めざるを得ない状況をなんとかできないだろうかと頭をフル回転させるが、良い案は思い浮かばない。

 

 諦めはつかないけど、もう諦めよう。


 そうしないと前には進めない。


 自分たちの指輪のせいで私が前に進めないことは、お母様もお父様も望んでいないだろうから。 


 そう決心して自宅に戻ろうとしたその時、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「心姫!」


 なんで、なんでいつもこの人はそばにいてほしい時にそばにいてくれるのだろう。

 

 いつまでも頼りっぱなしでは迷惑をかけてしまうので、もう絶対に頼りたくないのに。


 それなのに、私の名前を呼んだ人の姿を目にした私は安心してしまった。


「…‥瑛太さん。なぜここが?」 


 どうやら私は、もう瑛太さんなしでは生きていけない体になってしまっているらしい。



 ◆◇




 「すごい、綺麗な景色……」


 俺は橋の上から指輪が投げ捨てられた川を見つめていた心姫を連れて、ビルの最上階にある展望台へとやってきていた。

 そしてキラキラと輝く夜景を夢中になって見つめている心姫の姿を見た俺は安堵した。


 心姫から『今日は会えない』と連絡が来た時は何があったのかと気が気ではなかったが、冷静になって心姫が向かいそうな場所を考えると、俺の頭の中に浮かんだのは指輪が投げ捨てられた川だった。

 他に手がかりがあるわけでもないので、急いで指輪が投げ捨てられた川に向かうと、そこには心姫の姿があったのだ。


 心姫を見つけていなかったら、今日この場所に心姫を連れてくることはできなかっただろう。

 そんな事態だけはなんとしても避けなければならなかったので、心姫を連れてくることができて良かった。


「な。予想以上に綺麗だ」


「あ、あの、なぜ私をここに?」


 そう心姫から質問された俺は、その質問に答えるよりも先に心姫に質問をぶつけた。


「それより先に俺の質問に答えてくれ。あの場所にいたってことは、やっぱり指輪がなくなったの、かなりショックだったんじゃないか?」


 そう訊くと、心姫は答えづらそうに視線を逸らしてから話し始めてくれた。


「瑛太さんには指輪より瑛太さんの命が大切だ、なんて偉そうに言っておいて、指輪のこともやっぱりかなり大切だったみたいで……。指輪がなくなってから時間が経つにつれて指輪をなくしてしまったことを実感して、悲しみが増えていって、その悲しい気持ちをどうすることもできなくなってしまって……」


「やっぱりな」


 心姫は俺に指輪がなくなっても俺が無事ならいいと伝えてくれていたが、そんなはずがない。

 亡くなった母親が大切に持っていた形見なのだから当然である。


「本当にすみません」


「亡くなった母親が父親から渡された婚約指輪なんて大切に決まってるし、どっちの方が大切か、なんて順番をつける必要なんてないんだよ。どっちも大切なんだから」


「瑛太さん……」


「心姫、これ」


「--えっ⁉︎」


 心姫は俺がカバンから取り出した箱を見て、目を見開き箱との距離を縮めた。


「まさか、この箱って⁉︎」


「……ああ。心姫が大切に持ってた婚約指輪だよ」


 俺がカバンから取り出したのは、心姫から手渡されていた婚約指輪だった。


「なっ、なんで川に投げ捨てられたはずの指輪がここに⁉︎


 そう質問された俺は、指輪が見つかった経緯を心姫に話し始めた。

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