第38話
「せっかくなんでもいうことを聞くって言ったのにこんなことでいいんですか? これならなんでもいうことを聞く権利を使ってもらわなくてもいいのですが……」
「いやいや、大事なことだよ。この前挨拶するって言ってたしな」
俺が心姫にしたお願い、それは「心姫の母親に挨拶させてくれないか」というお願いだ。
俺は以前心姫にお母さんへ挨拶しに行くと伝えていたので、いつ挨拶しに行こうかと常々考えていたが、純花の問題もあって挨拶に行くタイミングを失っていた。
そして今回武嗣さんから別件で心姫の実家にお呼ばれし、実家なら仏壇があるだろうと考えた俺は挨拶をさせてくれないかとお願いしたのだ。
心姫は俺の誕生日祝いと、純花からの仕打ちに耐え続けている俺を労いたいという気持ちからなんでもいうことを聞くと言ってくれたのだろうが、心姫の優しさに甘えて自分の欲望を満たそうとする程自分勝手な人間ではない。
まあ一瞬でも邪なお願いが思い浮かんだことは心姫には内緒だが……。
「ありがとうございます。お母さんの仏壇はこっちです」
そして心姫にお母さんの仏壇が置かれた部屋まで案内してもらった俺は、仏壇の前で膝をつき正座をして座った。
そして仏壇を見た俺が最初に思ったのは、仏壇があまりにも大きすぎるということ。
お金持ちだからという言葉だけで片付かないのではないかというほど、豪華で存在感がある。
たとえこの仏壇がある部屋に居なくとも、その存在を感じてしまう程の迫力があるな……。
そしてそんな仏壇を見た俺は思った。
心姫が一人暮らしをしているのは、武嗣さんが自分がいなくなっても良いように心姫に早く独り立ちしてほしいからというのもあるが、心姫に母親が亡くなった悲しみを思い出させないようにと武嗣さんが考えたからだったのではないだろうかと。
お母さんとの思い出が色濃く残っているこの家では、きっとどこにいてもお母さんとの思い出が残っているはず。
それがたとえリビングではなく、玄関であってもお風呂であってもトイレであっても、お母さんと過ごした思い出は色濃く残っていることだろう。
そんな家で過ごしていたのでは、お母さんがいなくなったことを受け入れて新たな人生を進んでいくことはできないかもしれない。
武嗣さんは強面だが、その強面には似合わない優しさを感じた。
そしてそんな優しさを持つ武嗣さんよりも、心姫の母親は圧倒的に優しかったのだろうというのは仏壇に置かれた心姫の母親の遺影だけでわかる。
「……心姫に似て優しそうで綺麗な人だな」
「--っ。そっ、そうですかね」
「……?」
俺の言葉を聞いた心姫は焦った様子を見せる。
そんな心姫の様子を見た俺は自分の発言を後悔するが、今は心姫の母親の前だからと何事もなかったかのように振る舞った。
心姫は母親に友達がたくさんいると嘘をついていたと言っていたが、きっとお母さんはそれが嘘だということに気づいていたのではないかと思っている。
俺の母さんもそうだが、なぜか俺が言っていないことまで把握していりするからな。
母親は言われなくとも子供のことならなんでもわかってしまうものなのだろう。
だからこそ、俺は心姫の友達として挨拶をして心姫の母親を安心させなければならない。
「そんな風に思ってくれてありがとうございます。きっとお母さんも喜んでます」
「そうだといいけど。お母さん、名前は?」
「
「千景さんか……」
心姫に母親の名前を聞いてから、俺は手を合わせて心の中で千景さんに話しかけた。
『千景さん、心姫の友達の矢歌瑛太っていいます。
千景さんは心姫の嘘に気付いていたかもしれませんが、今は僕以外にも友達がたくさんいます。だから安心してください。っていっても母親ならいつでも娘のことが心配になると思いますけど、心姫のことは僕に任せてください。そのうち婚約指輪を……渡すかもしれないので。その時はまた、挨拶にきますね』
そう心の中で千景さんに告げてから顔を上げて心姫の方を見ようとして、もうひとつだけ言おうとしていたことを言い忘れていたのを思い出し、もう一度仏壇の前で手を合わせた。
『千景さん、心姫を、産んでくれて本当にありがとうございます』
一番大事なことを伝えた俺は、顔を上げて心姫の方を見た。
「ありがとな。挨拶させてくれて」
「そんなそんな。むしろわざわざ手を合わせていただいてありがとうございます」
「定期的に手を合わせにきてもいいか?」
「えっ、それはもちろん構いませんけど……ご迷惑じゃないですか?」
迷惑なんてとんでもなくて、自分がどん底にいた時に救ってくた心姫を産んでくれた千景さんには感謝しかないし、今日だけじゃなくてこれからも心姫の現状を報告して安心してほしいと思っている。
俺は心姫だけを大切にするだけでなく、心姫の家族もひっくるめて大切にしていきたいのだ。
「迷惑なわけないよ。心姫と一緒に定期的に挨拶に来させてもらえたら嬉しい。まあ来すぎると武嗣さんが毎回ご馳走を準備してきそうだからある程度の間隔にしてはおくけど」
「お父様は多分楽しんでやられると思うのでいつきてもらっても大丈夫ですよ」
「じゃあまた声かけさせてもらうわ」
「はいっ」
こうして心姫の母親、千景さんへの挨拶を済ませた俺が心姫の実家を後にしようとしたとき、少しだけ背中を押されたような感覚がしたのはきっと気のせいなのだろう。
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