第35話

「瑛太さんっ! 聞いてください!」


 学校が終わって俺が三木さんの運転する車に乗り込むと、心姫は前のめりになりながら話しかけてきた。

 いつも三木さんの車に乗り込む度に心姫から良い匂いがしてきているが、今日はその匂いを更に強く感じて興奮してしまう。


 俺は今日一日、心姫に対するいじめが以前よりも酷くなっていないかを心配していた。

 それは昨日、瑛太が心姫をいじめている女子三人組を返り討ちにしてしまったからだ。


 昨日返り討ちにされた腹いせとして心姫に対するいじめが悪化してしまうのは容易に想像できるので、心姫が無事に帰ってきてくれるか心配していた。


 それなのに心姫は落ち込むどころか嬉しそうに話しかけてきた。

 心姫が嬉しそうにしているのは嬉しいが、なぜ嬉しそうにしているのだろうか。

 

「何か良いことでもあったのか?」


「そうなんですよ! クラスメイトの女の子--白沢さんって子がどうも昨日私が瑛太さんに助けられたところを目撃していたみたいで、その件について話しかけてきてくれたんです」


「何を話したんだ?」


「色々話したんですけど、その中でも一番嬉しかったのは『新屋敷さんがいじめられてたのにこれまでずっと見過ごしてて本当にごめん!』って謝ってくれたことです!」


 謝ってくれた?


 昨日の一件を目撃した白沢さんという女の子は、なぜ心姫に対するいじめを見過ごしていたことを謝罪してきたのだろうか。


「えっ、なんで昨日の場面見てこれまでいじめを見過ごしてたことを謝ることになるんだ? 心姫が心姫と釣り合っていない地味な男と付き合ってるとかって噂が流れたり、逆に昨日のいじめっ子三人組の悪事を先生に報告してくれるとかならわかるんだけど」


「いやいや釣り合ってなくなんかないですけど……。瑛太さんが葉桐さんたちを撃退する姿を見て、『私もあの人みたいに強くなって手を差し伸べられるようにならないと』って思ったらしいです。瑛太さんの勇気が白沢さんの心を動かして、瑛太さんの勇気が私を救ってくれたんです」


 俺の勇気が人の心を動かしたのか?


 俺は自分の通っている学校では純花がでっち上げた噂によって最低の人間だと思われており、そんな人間を見習う人間なんていないと思っていた。

 まあ純花がでっち上げた噂が無かったとしても、誰かの見本になれるような人間ではないんだけど。


 そんな俺が誰かの心を動かし、結果的に心姫を救うことになったのだとしたら、そんなに嬉しいことはない。


 あの時は心姫が車に轢かれそうになっていた時と同じようにただ夢中になって心姫を助けようと足が動いただけで、誰かに誇れるほど優しい人間というわけではない。

 実際路地裏で囲まれていたのが心姫以外の人間だったら、俺は手助けに入っていないだろう。


 それでも俺の行動が誰かに影響を与え、そして心姫を救えたというのは喜ばしいことだった。


「……そうか。そりゃよかった。てか救われたってことはその白沢さんって子はいじめっ子のことを先生に暴露してくれたのか?」


「はい。それで先生方が私のところに事情聴取に来たので、真実を全てお話ししておきました。そしたらその後で葉桐さんたちが先生に呼び出されて、どうも自宅謹慎になったらしいです。親からもこっぴどく叱ってもらったとのことでした」


「……マジか。まさか心姫を助けただけでここまでトントン拍子に話が進むとはな」


 心姫をいじめっ子三人組から助けた時は勿論こんなにあっとゆうまに心姫がいじめられている状況を改善させられるとは思っていなかった。

 俺は何もしていないが、俺の行動が心姫がいじめられているという状況を改善させられて本当に良かった。


「私もびっくりしてます。四年も悩まされてたいじめがここまで簡単に解決しちゃうなんて。瑛太さんさまさまです」


「本当に良かったよ」


「はい。だから瑛太さん、その、お礼と言ってはなんですが……」


「お礼?」


 心姫がお礼と言った次の瞬間--。


 チュッ。


 これまでの人生で感じたのことのない柔らかい感触が俺の頬に触れた。


「--え、ちょっ、心姫⁉︎」


 心姫は俺の頬にキスをしてきたのだ。


 えっ、そ、そんなの付き合ってもない男女がしていいことなのか⁉︎

 ほ、ほ、ほ、頬にキスなんて結婚してからじゃないとしたらダメな行為じゃないのか⁉︎


「と、突然すみません。でも私が今すぐ瑛太さんにできるお礼がこれくらいしか思い浮かばなくて……」


 お礼ってそりゃ俺は嬉しいけど、心姫はどうなのだろうか。

 俺の頬にキスをするなんて嫌ではなかったのだろうか。


 そんな疑問を抱えながらも、心姫に直接訊けるわけはなかった。


「あ、ありがと」


「はいっ。あっ、でもそういえばちょっと問題もありまして……」


 心姫は思い出したようにその問題とやらを俺に話し始めた。


「遅かれ早かれ広まっていたとは思うんですけど、白沢さんが『新屋敷さんの彼氏はカッコよくて強くて優しい人』って情報を流したせいで、私に彼氏がいるっていうが学校内で広まってしまいまして……」


 そうか、確かにそうなるよな。

 白沢さんが昨日の一件を見ただけで他言をしていなかったとしても、結局はいじめっ子たちがその情報を広めていただろうし。


 心姫が絡まれていたのが他校の生徒だったら彼氏だと嘘をついても問題は無かったのだろうが、同じ学校の生徒となればそんな嘘が広まってしまうのは当然だ。

 そうなることは少し考えればわかったのに、なぜその場の勢いで突っ走ってしまうんだか……。


 これでは結果的にまた少しだけ心姫が学校で過ごしづらくなってしまう。


「ごめん。俺があんな嘘ついたから……」


「あっ、いえ、その、私はむしろ瑛太さんに謝りたかったんです。私みたいな何もできない女の子と恋人同士だって勘違いされるなんて嫌ですよね」


「……嫌ではない、というかむしろ嬉しいけど」


「えっ、なんて言いました?」


 マズッた、今のは『嫌ではない』だけで止まっておかなかればならなかった。

 そう焦った俺だったが、心姫には聞こえていなかったようなので、誤魔化すことにした。


「なっ、なんでもない。それより彼氏がいるって噂が流れて前より余計に学校で過ごしづらくなったりしてないか?」


「はいっ! それは問題ありません。むしろ前よりすごく良い状況になったんですよ。白沢さんが私に話しかけてきてくれたことで他の生徒も私に話しかけてくれるようになって……。ようやく普通の学校生活がスタートしたなって感じです」


「そうか、ならよかった」


「これからも頼りにしてます。瑛太さんっ」


「俺の手の届く範囲ではこれからも助けるから。できるだけ俺から離れないでそばにいてくれ」


「--っ。はいっ。そうしますね」


 自分で言っておきながらかなり恥ずかしいことを言ってしまったのではないだろうかと思ったが、心姫が嬉しそうな姿を見て、そんな不安は消え去って行った。


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