第32話
長い夏休みを終えた俺は、始業式に参加した後で心姫の家の最寄駅にあるカフェで心姫が来るのを待っていた。
心姫の通う学校も俺が通う学校と同じく今日が始業式で、午前中に学校が終わるらしい。
しかし俺たちの学校よりも終わる時間が少しだけ遅いということで、今日は自分で自宅まで帰りそれから徒歩でカフェへとやってきたのだ。
俺は夏休みに入る直前、心姫に純花の話をした。
純花の話は心姫には隠しておくつもりだったし、迷惑をかけないためにもやはり心姫には純花との話はするべきではなかっただろう。
しかし心姫は俺の気持ちに寄り添い『私がいます』と言って励ましてくれた。
真意はわからないが、心姫の父親が母親に渡した婚約指輪を渡してくれたのも心姫なりの励ましだったのだと思う。
心姫の優しさに背中を押された俺は、夏休みを純花への反撃のための準備に使うのではなく、休息のための時間にした。
たまにふと学校での自分の状況を思い出すこともあったが、心姫の存在のおかげで頭を抱えずに過ごすことができたし、夏休みが明けた今日、学校に行くこともできた。
心姫の言葉が無かったら俺は学校にはいかず不登校になっていたかもしれないし、心姫には本当に感謝しかない。
心姫の優しさに背中を押されて学校に行くことはできたものの、流石に夏休みが明けて初日の今日は、夏休み前よりも状況が悪化しているのではないかと不安を抱えながら学校に出ていった。
学校に到着した俺が校舎の中を歩くと、生徒たちは相変わらず俺に軽蔑の視線を向けてきていた。
しかし、その数は夏休み前と比べると半分程に減っていたような気がした。
夏休み前は学校中が俺と純花の話題で持ちきりだったが、どうやら一ヶ月以上ある夏休みの間に噂は落ち着いてくれたらしい。
正直な話をすれば『噂が落ち着いてくれた』なんてレベルではなく、全員が完全に忘れ去ってくれてはいないものだろうかとも考えていたが、まあそう上手くいくわけない。
まずは純花に広められた噂が半分でも収まったことを喜ぼう。
そんなことを考えながら、俺はとある事実に気付いていた。
心姫に『私がいます』と言われた夏休み前と比べると、自分に対して軽蔑の視線を向けられても、気にならなくなっているのだ。
夏休み前は全世界が敵のような、一種の被害妄想のような状態になってしまっており、誰を見ても俺に対して悪口を言っているのではないだろうかと疑ってしまっていたが、今日は学校で軽蔑の視線を向けられても被害妄想をしたり落ち込んだりすることはなかった。
それはやはり心姫が『私がいます』と言ってくれて、俺の中にある心姫という存在が大きくなったからなのだろう。
俺の心の大半を心姫が埋め尽くしているのだから、周囲が俺のことをどう思っていても気にならないのは当然だ。
純花の話をしながら涙を流している俺に対して『私がいます』と言ってのけるなんてそうできることではない。
心姫にはあまりにも多くのものをもらい過ぎているので、これから俺も心姫に何かを返していかなければならない。
……それにしても、心姫が俺に婚約指輪を渡してきた真意はいったい何なのだろうか。
夏休み中、ずっと考えていたが流石に心姫本人に直接訊くわけにもいかず、その答えは見つからなかった。
婚約指輪というのは文字通り婚約をする時に渡す指輪で、しかも俺が受け取ったのはただの婚約指輪ではなく、武嗣さんが心姫の母親に渡した指輪だ。
それを心姫からもらったとなれば、『婚約してください』と言われた証なのだろうが、女の子側から婚約指輪をもらってプロポーズするなんて聞いたことがないし、心姫は『いつか私に渡してください』と言って俺に婚約指輪を手渡してきた。
となれば、あれは心姫からのプロポーズではなく、心姫から俺に『プロポーズをしてくれ』とお願いしてきたということになる。
……いやそんな話聞いたこと無いんだが。
まああの時の俺は相当弱っていたし、純花の話をするだけで涙が流れてしまっているような状況だった。
そんな弱り切った俺を見て居ても立っても居られなくなった心姫が、俺を勇気づけるために婚約指輪を渡してくれたと考えるのが妥当だろう。
……いや、でもやっぱりおかしいな。
今の考えは心姫が俺のことを好きという前提がなければなりたたない。
流石に心姫が俺のことを自分にプロポーズしてほしいと思う程好きだとは考えられないしな……。
この婚約指輪、どうしたらいいのだろうか。
このまま『この前はありがとな』とか言って返すのもおかしいし、それがおかしいからと言って『じゃあプロポーズするか』とはならないんだよなぁ。
やっぱり婚約指輪を渡したのって心姫が俺のことを好きだからなんだろうか……。
いや、いくら車に轢かれそうになっていたところを助けたからと言って、心姫が俺のことを好きだと思うなんて頭の中があまりにもお花畑すぎるな。
一旦目を瞑って自分の気持ちを落ち着けよう。
そんなことを考えながら心姫を待っていたのだが、集合時間を五分、十分過ぎても心姫がカフェに姿を現すことはなく、遅れるという連絡が来ることもなかった。
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